衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年04月10日    月曜日     第1 回の開示 合計3915回の開示

八十二ヶ条の修行体得

まず、証得についての感覚を申し上げます。証得とは一つのことに専心している時、突然心に衝撃が起こり、結論を得ることで、身心が一瞬空になる感覚を覚えます。その瞬間、世間を見る目も変わりますが、この結論は未完成で、細部まで明確ではなく、心も完全に確信できません。熱いうちに鉄を打つように、一歩ずつ深く観行を重ね、長期間継続して初めて全貌を観じ、完全に疑いのない結論を固める必要があります。この過程には精進と禅定が関わり、忍耐力と修行が少しでも欠けると完成できず、往々にして反復を要します。継続するには発心に依らねばなりません。

一般に、観じる対象が多く定力不足であれば、いずれの観行も完成できません。「林の中の二羽より手の中の一羽」と言われるように、一つの観行を完全に成し遂げて方法を体得し、次に進むべきです。急ぐべきではありません。

日常では定力を養い、常に内観すべきです。食事や歩行、作業時にも一処に心を摂める練習を重ねれば、時が経つにつれ無口になり、自他差が甚だしいと感じるようになります。実際の修行成果がないため、空論を好まず、虚飾ある言辞で仏語を引用するだけで実修経験のない者に対し、人を誤らせるとして反感を抱くようになります。

内観を続けると、自他を照らし合わせ、他人の心理変化を以前より明晰に理解できるようになります。他人の欠点を自らの欠点のように見て、常に慚愧を覚え、他者への怨みが自らの習気への不満へと転じます。しかし人間関係は以前より円滑になり、発言も他者を慮るようになります。ただ、他者の好意を強く意識することは減ります。

日々修行に励むと、世俗への関心が著しく薄れます。深い習気以外は何事も行う気が起きず、偶にするもすぐ興味を失い、即座に捨て去ります。むしろ内心の世俗への反応を観察することが日常化しますが、内観すれば概ね慚愧すべき習気が現れ、観じれば観じるほど改めるべき点が明らかになり、習気改革の道遠きを実感します。

評:この体得は実に優れており、真実の修行過程における実体験と言えます。最初に述べた証得の感覚は最終的な悟りではなく、証得に至る過程の三昧境地でしょう。定と慧の浅深さまざまな段階があり、最終的な証得は定慧等持の真の三昧境地です。身心の感覚がより強烈で持続し、定が堅固になり散じ難く、行住坐臥全てが定中にあり、煩悩は極めて微弱になります。その他の身心現象については、妄語を防ぐため詳述を控えます。

観行は一つの問題、一つの疑情に専念すべきです。複数同時では散乱し、妄念を生じ、もはや観行とは言えません。真に観行に励む時、人は変容し、旧知の者からは無愛想で人情味のない者に見えますが、真の修行者は既に凡夫を超え、内外に変化が生じ、徐々に脱皮を遂げます。理解されぬ故に誤解を生じますが、修行者は世俗と異なる道を歩む者、気にせず良し。

修行が進むと定慧共に増強され、自慢話を好まず、心が微細になります。周囲を無意識に観察し、人の心機を看破し、物事の真相を見通すようになります。自己観察も緻密になり、心念・煩悩・習気が明瞭に観じられます。世間法への興味は次第に薄れ、看破したものは即座に捨て去れるようになります。未だ看破せぬ者は依然として執着します。要するに、真の修行過程においては、あらゆる面で変化が生じ、以前とは全く異なる存在となるのです。

——生如法師の開示
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