衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年01月09日    水曜日     第2開示 合計1170開示

正しい聞思があってこそ正しい修証がある

暑い夏、通行人が喉の渇きを覚え、一つの井戸を見つけた。水は清くて深いが、縄と水がめを探しても、まったく見つからない。仕方なく渇きをこらえるほかなく、清い水に潤いを得ることができない。井戸の水はあるのに、自分とはまったく関わりがない。仏を学ぶ者もまた同じである。口では常に空を説くが、求証する方法がなく、いたずらにスローガンを叫ぶだけで、いまだ「有」の中にいる。常に「放下せよ」と叫んでも、何を放下するのか、どうやって放下するのかを知らず、ただ常により一層執着するばかりである。それは方便の方法と手段がないためである。解脱のやり方や方法を心得ることが非常に重要であり、さもなければ、井戸の縁に立ちながら口が渇いて舌が乾くようなものである。

衆生が解脱しようとするなら、仏の道理に従って修証し、我見を断じ、五蘊十八界の空を証し、人我なく四相なしとしなければならない。さらに五蓋を捨離し、初禅を発起し、煩悩を断じて我執を去り、命終して初めて三界から出て、解脱を得ることができる。何が我なのか、我とは何なのかを知らず、七識と五蘊をしきりに執着し、破執や放下をいたずらに叫ぶだけでは、徒労にすぎない。

小乗の解脱と放下は、必ず五蘊十八界の虚妄を観行(vipaśyanā-caryā)しなければならない。一つの蘊ずつ観し、一つの界ずつ観し、羅漢初果を証し、三縛結を断じ、漸次に四果を証して出離を得るほか、他に道はない。外道はこの道理を知らず、長年修行を積み、最高の禅定を修めて、最上層の天に生まれ、定中の境界を涅槃と死に物狂いで執するが、定境は法塵にすぎないことを知らない。知があるということはすなわち想であり、すなわち我であり、いまだ五蘊の中にあって、生死を出られない。いつ解脱できるのか、それは遠遠として期しがたい。

仏法の修行は、聞・思・修・証である。まず多聞すること、真の仏法を聞くこと、それは仏の所説であり、仏の道理にかなうものである。もし仏説に合わなければ、多聞すればするほど生死を増す。次に思惟すること、道理と法に則って正しく思惟しなければならず、邪思邪解であれば、ますます生死を増す。さらに修すること、仏の道理に従って修めることであり、聞くことが正しくなければ、思うことが誤謬であり、修めばたちまち偏って、正路に上がれない。最後に証すること、聞くことが正しく、思うことが透徹し、修めることが的確で、時節因縁が具足して初めて真を証することができる。真を証してこそ真実の受用がある。いたずらに放下を叫ぶことは、目標がどこにあるのかを知らずに盲目的に発砲するようなものである。多く福を積み、厳かに戒を持ち、常に定を修め、よく慧を修めるならば、解脱の大道はまさに目の前にある。

——生如法師の開示
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