衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年03月31日    水曜日     第2 回の開示 合計3251回の開示

無間見道とは何でしょうか

真に見道した後は、心と心の間に間隔なく道の中に在るようになります。心心無間とはどういう意味でしょうか。どの心が無間の心であり、どの心が間断のある心なのでしょうか。なぜ間断が生じるのでしょうか。

第八識と意根は無間の心であり、前六識は間断のある心です。見道が無間であるためには、意根と意識が同時に見道しなければならず、意識だけが単独で見道することはできません。真の見道では意識が断滅しても道果は残りますが、仮の見道では意識が一旦弱まれば道果は失われます。

真の見道とは意根の見道を指します。意根が道を見出せば、心は永遠に道の中に住し、再び退転することはありません。しかし意識が道を見出す場合はそうではなく、意識は間断のある心で主体性を持たないため、意根が道を見出していなければ意識は意根の指示に従い、いわゆる道を認めず道の中に在り続けません。もし意識が再び疑心を生じさせれば退転します。たとえ意識が退転しなくても、意根が常に主体となるため、身口意の行いは変わらず依然として元のままです。

ある人々は意識による見道、あるいは禅定の境地を道と見做し、退転しないよう常に座禅で定境を保ち、悟った境地を維持しようとします。他方で、意識で意根を引き連れて自己に順じさせようとする人々もいますが、これは結局長続きせず、紙で火を包むことができないように、最終的には事態が明るみに出ます。意根が道を見出した後は、境界に対する意根と意識の執着が薄れ、意識は容易に方向転換しますが、意根が理を認めれば十頭の牛でも引き戻せません。意根の頑なさゆえ、正法で意根を導くことも容易ではなく、意根は熏習を受けにくいため、証果が極めて困難なのです。煩悩の重い人々に軽く説法しても効果がなく、大いなる報いを受け壁に激突し、血まみれになって初めて自らを省みるようになります。このような人々は根器が劣り、十牛の力でも動かず、自説に固執し融通が利かず、意地を張る傾向があります。

——生如法師の開示
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