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日常法話

2018年06月27日    水曜日     第2開示 合計682開示

無間作意とは何でしょうか。

間とは隔たりや中断を意味し、無間とは連続して途切れず、間隔も中断もない状態である。作意とは法に対して注意を向け、心を法に向け、法に注目することを指す。作意は識心の五遍行心所法の一つであり、八つの識には全て作意が存在し、それぞれが何らかの法へ向かい、何らかの法に注目することができる。

では、第八識の作意は無間なのか有間なのか。全ての法は第八識によって生じ保持されることを我々は知っている。第八識が一旦何らかの法に対して作意しなくなれば、その法上で運行せず、その法上で種子を生じないため、その法は必ず消滅する。したがって、何らかの法が存在する限り、必ず第八識の作意が連続して運行している。しかし、全ての法の存在は、一つには第八識が成熟した業種に基づいて任運に生起させ、二つには意根の作意と攀縁によって引き起こされる。そのため、時として第八識の作意は意根の作意によって誘発され、意根が一旦作意しなくなれば、第八識もまた特定の法を生じ保持しなくなり、その法は必然的に消失する。つまり、特定の法が存在するためには、必ず意根の作意心所が運行しており、ある法が持続的に存在し続ける限り、意根の作意心所法が持続的かつ途切れることなく運行し続けていなければならない。そうでなければ、その法は必然的に消失する。

したがって、第八識の作意は無間たり得ると言え、意根の作意も無間たり得ると言える。では、意識の作意は無間たり得るだろうか。我々は、意識が一日の多くの時間で中断され、常に無意識のうちに滅することを知っている。仮に意識に無間作意があったとしても、それは一時的に持続するものであり、二十四時間途切れないということは不可能である。意識が一時的に途切れず作意している状況でさえ、それは完全に意根の無間作意によるものであり、意根が一旦作意しなくなれば、第八識は意識の種子を出力せず、意識は必然的にこの法上で消失する。

したがって、意根の無間作意がある場合にのみ、意識は一時的に無間作意を持つことができると言える。実際、ほとんどの場合、意識はしばらく作意すると疲労し、散乱して滅するため、長く作意し続けることはない。五識の作意はなおさらである。もし意根の作意がなく、第八識の作意がなければ、六つの識は一瞬たりとも作意することは存在せず、六識は全て第八識と意根に依存して初めて現行運行でき、独立できず、主体性を持たないからである。

意根が一旦何らかの法に対して無間作意を形成すれば、それはすでに意識による染着が完成したことを意味し、自覚的に証知した道理に従って六識を指揮して実行するようになり、心行は必ず変化し、身口意行も必ず変化する。もはや意識による監督や注意喚起は必要ない。意根が染着に成功していない場合にのみ、意識による絶え間ない監督、注意喚起、調整が必要となる。それは意根が自覚的でなく、染着がなく法を証していないがゆえである。

——生如法師の開示
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