衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年07月10日    火曜日     第4開示 合計729開示

八正道

八正道とは、正語、正業、正命、正思惟、正精進、正信、正念、正定である。八正道の修行が満足し、八邪道から脱して、聖性と相応してこそ、果を証することができ、それによって聖者の行列に入ることができる。

もし人が奸诈(ずるく)、険悪で、卑鄙(卑劣)で、心術が正しくなく、手段を選ばず、嘘で欺くような者であれば、明らかに八正道の要求に適わず、正語ではなく、正思惟がなく、正念がなく、正業を営まず、心が正しく定まっていない。このような人には八正道がないのである。ならば、道理を語るとき口を極めて流暢に、いちいち筋が通っていても、その人に真知灼見があることを示すものではなく、その人が我見を断じ、初果・二果を証得したことを示すものでもない。

邪念が盛んな人には、禅定があり得ない。禅定のある人には、邪な心思があり得ず、心念は清静 (praśama) で正直であり、妄想が少なく、攀縁が少なく、浮ついた思惟はなく、心意が端直である。それゆえ、人の心術が正しくなく、計謀が多いということは、心が定の上になく、禅定がないことを示している。小乗の八正道の正信は、必ず苦・空・無常・無我を信じなければならない。大乗の八正道の正信は、必ず自らの身に生滅しない自性清浄心の如来蔵 (tathāgatagarbha) があることを信じ、それによって成仏できることを信じ、如来蔵が五陰 (pañca-skandha) の身および一切法を生じさせることを信じなければならない。大乗の正信が円満して、菩薩の六度を修めてこそ、明心して証悟することができる。衆生は愚痴で、いつも人に覆われることを好み、誇らしげに語る理を好み、滔々と語る人を崇拝する。真理は口癖ではなく、道は口の上にはない。滔々と語る者に必ず道があるとは限らない。もし道があるというなら、過去の文人墨客の胡適らは、誰もが弁舌さわやかで、文章も鋭く、仏法の著作や禅宗の著作を山ほど著し、長編大論で羨望を禁じ得ないほどであったが、しかし彼らには道がなかったのである。

——生如法師の開示
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禅定が出現する若干の情形

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万法皆空、第八識不空

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