八正道:正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい思惟、正しい努力、正しい信、正しい念、正しい定。八正道の修行を成就し、八邪道から離れ、聖なる性質と相応して初めて悟りの境地を証得し、聖賢の列に入ることができる。
もし人が狡猾で邪悪、卑劣で心術正しからず、手段を選ばず、嘘と欺瞞に走るならば、明らかに八正道の要求に合致せず、正しい言葉ではなく、正しい思惟もなく、正念が欠如し、正しい業を謀らず、心が正しく定まっていない。このような者は八正道を具えていない。だからたとえ道理を滔々と語り、理路整然と述べたとしても、その者に真の見識があるとは言えず、我見を断ち初果や二果を証得したとは証明できない。
邪念が盛んな者に禅定はありえない。禅定を得た者に邪な心は存在せず、心の念いは清浄で正直であり、妄想は少なく、攀縁も稀で、浮ついた思惟は消え失せ、心は端正である。ゆえに心術が正しからず謀略が多い者は、心が定まっておらず禅定がないことを示している。小乗の八正道における正信は、必ず苦・空・無常・無我を信じなければならない。大乗の八正道における正信は、必ず自身に生滅しない自性清浄心である如来蔵が存在することを信じ、それ故に仏となれることを信じ、如来蔵が五陰身と一切の法を生じ出すことを信じなければならない。大乗の正信が円満となり、菩薩の六波羅蜜を修行して初めて明心し証悟するのである。衆生は愚痴ゆえ、常に人に籠絡されることを好み、大言壮語する理屈を好み、侃々諤々と語る者を崇拝する。真理は口先だけの言葉ではなく、道は口先にあるのではない。雄弁に語る者に必ずしも道があるわけではない。もし道があるなら、かつての文人墨客である胡適らは、一人残らず弁舌爽やかで文章は鋭く、仏法著作や禅宗著作が山ほどあり、長篇大論ぶりは実に羨ましいほどであったが、彼らには道がなかったのである。
12
+1