衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年09月17日    月曜日     第1開示 合計830開示

虚妄の楽受と尽きることなき苦楚

意根が五陰の身を我と見なすとき、飲食の面では、色身を維持するために、意識と眼識に飲食の色・味・栄養を選り好みさせ、舌識と意識に美味と栄養を貪らせ、味塵を真実のものと見なし、味覚を真実のものと見なし、脾胃を真実のものと見なして、そこで飲食を貪愛するのです。

実のところ、美味は刹那に生滅変異して久しく常ではなく、味覚も刹那に生滅変異して久しく常ではありません。味覚が消えた後は、何一つ得るところがなく、味覚が存在しているときもやはり何一つ得るところがありません。美味が食道に入った後は何一つ得るところがなく、美味が存在しているときもやはり何一つ得るところがありません。消化して栄養になった後も何一つ得るところがなく、栄養が存在しているときもやはり何一つ得るところがありません。色身が滅した後は何一つ得るところがなく、色身が存在しているときも同じく何一つ得るところがないのです。

しかし七識の心は、飲食を貪愛するがゆえに、欲界の六道輪廻の中に鎖されて苦しみを受け続け、一時刹那の受覚を貪ったばかりに、千万年ものあいだ生死の苦海に沈淪しています。その苦と楽の比は、いったいどうでしょうか。

眼で色を見、耳で声を聞き、鼻で香を嗅ぎ、身で触を覚え、意で法を思うときも、また同じです。短くて久しく常のない虚妄の楽受と引き換えに得るのは、果てしない苦しみなのです。なんと愚かなことでしょうか。

常に自らの心の中のあの我を観照し、五陰の身のさまざまな活動の中で、すべてがあのいわゆる我をめぐって展開しているかどうかを観察し、自分の覚知性・覚受性を真実の我と見なし、色身のさまざまな活動を真実の我と見なして、その後はこれらのいわゆる我を貪執して自覚なきままに、生死の苦しみを受け続け、輪廻が止むことがないのです。

常に心を定(じょう)の中に置き、自分の言動挙止を観察し反観して、心の中で宝愛しているあの我を見つけ出し、それを観行(vipaśyanā-caryā)し、思考し、降伏し、消融し、最後にはそれを手放し、断除すれば、それに縛られることがなくなり、はじめて解脱を得て、自在を得ることができるのです。

——生如法師の開示
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