阿羅漢は命終の時、意根は一切法に対して作意を生起させなくなり、思心所の運行もなくなり、五遍行心所法はすべて現行しません。こうなると如来蔵は意根の心行を了別することができず、意根の識種子を輸送することもできなくなるので、意根は滅します。私たちの意根が一切法に対して作意を絶やさず、思量 (manasikāra/manana) と抉択を絶やさなければ、如来蔵は絶えず六識を出生させ、身口意行は絶えず現行します。意根は興味のある法に対してのみ作意します。興味のあるものが多ければ多いほど、作意も多くなり、意識は非常に忙しくなり、静寂することができず、じょう (samādhi) を修めることは成功しません。
私たちがじょう (samādhi) をよく修めたいなら、世俗の法に対する欲望を減らし、一切の世俗の法に興味を持たず、人間の享楽をできるだけ少なくし、出離心があるとき、じょう (samādhi) は速く修めることができます。もし某些の人や事に対して常に覚観 (vitarka-vicāra) があり、瞋恚心があり、貪愛があれば、それは意根の攀縁が絶えず、作意が絶えず、思量 (manasikāra/manana) が絶えないことを意味し、六識の思いが絶えないのであり、そのようではじょう (samādhi) を修めて成功することはできません。人間の欲望を減らせば、欲界定は現れやすくなり、人間の法への貪りを少なくし、貪らなければ、天上の境界が現前します。人間の何もかもが良いと常に思い、人間の人事物に常に執着すれば、心に定 (じょう) はありません。貪心と欲望を減らし、自分をあまり顧みず、心念を常に自分の周りに巡らせず、できるだけ自分を捨てて、心に道業を抱けば、じょう (samādhi) は現れやすくなります。
じょう (samādhi) を修めることもまた修心であり、貪瞋痴の煩悩を降伏させることこそ修心であり、修心こそ修定であり、心が清静 (praśama) になれば、じょう (samādhi) が現れます。じょう (samādhi) をうまく修められない人は、必ずや心の中の俗事が多く、捨てきれないため、六識が絶えず思いを起こし、一処に定することができないのです。だからじょう (samādhi) をよく修めたいなら、常に自分の内心を点検し、その中に何があるかを見て、手放せない人事物をできるだけ排除すれば、六識は静寂し、定 (じょう) が得られます。
私たちは毎日何をしていても、心中に一法を縁じ、他の念を持たないようにするか、あるいは他の念を淡くし、処理し終えたら捨て去るようにします。世俗の事はただ応対するだけでよく、あまり真剣になりすぎないようにします。定 (じょう) を修めるとき、私たちが心念を収摂し、世俗の法への攀縁を少なくすることができれば、動中定は必ずうまく修められます。心は世間の法からできるだけ隔離し、事は行っても、行ったら捨て、心で攀縁せず、物事をあまり案じなければ、定 (じょう) は現れやすくなります。毎日、睡眠以外のときは、いつ何をしていても、心中に一法を縁じるよう努力すべきです。あるいは念仏 (buddhānusmṛti) し、あるいは念誦し、あるいは経を背誦し、あるいは観行 (vipaśyanā-caryā) し、あるいは参禅し、あるいは話頭を参じ、あるいは公案を参じます。時間が長くなれば、身心に自然と快適な覚受が現れ、じょう (samādhi) が現れます。
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