問:前七識の中で、真の一家の主は意根です。一般の人は意識が作主だと考え、意識が理解し認めた事柄ならば、それが自分の智慧の境界であると思っています。しかし断我見して証果すること、さらには明心して開悟することは、並大抵のことではありません。それは意根に自分の真実性を否定させることであり、これは意根が無量の世にわたって蓄積してきた深厚な我見・我執の煩悩と根本的に相応しないものです。意識がどれほど仏法を思惟し、正知見を薫習しようとも、意根に対して生じる作用はごく小さなものです。この事柄において最も説得力があるのは、意根に現観させること、すなわち禅定の中で、意根に五蘊七識の虚妄で生滅する性質を現観させることです。現量の境界に直面すれば、意根は五蘊は我に非ずと認めざるを得ません。こうして初めて、真に我見を断ったことになります。明心も同様で、意根に如来蔵の働きを現観させ、この真心の存在を認めさせるのです。
世俗的な譬えを挙げましょう。ある人は幼い頃から唯物主義の教育を受けており、宗教信仰や因果輪廻などの話をしても、何と言っても信じず、あなたは走火入魔(とりつかれた)だとまで言います。しかし誰かが神通を示現してみせれば、たちまち信じるようになり、誰よりも信じるようになります。一般の人は眼見為実(目で見たことが真実)だと考えるからです。証悟も同じようなものでしょうか?
答:眼見為実とは、意根が証得することです。目で見なければ、ただ聞いただけであり、意根は信じません。眼見為実・耳聴為虚(目で見たことは真実、耳で聞いたことは虚しい)という言葉から、それが意識心単独の証得なのか、それとも意根が同時に証得するのかが分かります。もちろん同時に証得するのです。眼見為実という言葉は実にうまく使われており、これによって意識と意根をはっきり区別することができます。真の信とは、証得してからのことであり、証得していないときは、ただ意識が聞いただけで、見ていないのです。見えたとき、意根は信じます。自ら証得したのですから。
これに準じて、断我見して無我を証得することも同じ道理です。意根は現量の境界しか認めません。意根が証得せず、見なければ、信じません。耳聴為虚とは、意識が聞いたことであり、意根は信じず、心の中で認めることができないのです。だんだん明らかになってきました。真実に用功さえすれば、仏法は実は証得するのが難しいものではないのです。今後、分からない問題も、少しずつ分かるようになるでしょう。
断我見と明心のとき、意根は何をしているのか、どのような心态(心持ち)なのか、どのような心行なのか、どのような智慧なのか、これをはっきりさせれば、大智慧が生まれ、その後の観行は、日が中天に在るがごとく、光明朗々と照らし、智慧は一たび発すればとどまるところを知りません。断我見と明心開悟のときも、意根が作主なのです。なぜなら、いかなる法においても、意根が作主だからです。意識が観行するとき、その観行の内容は刹那刹那に意根へと伝えられますが、意根は容易に同意し信じることはしません。同意せず信じないということは、意根が分かっておらず、証得していないということです。意識がひとたび事実あるいは現量の境界を呈示すれば、意根はすぐに同意し信じ、作主して言います。「そうだ、その通りだと。」意根はいかなる法においても、いかなるときも、作主なのです。断我見と明心のときにだけ神様が作主しなくなるなど、絶対にあり得ません。それならば、断我見と明心とは、意根が現量で証得し、意根が信じ、意根が作主して決定するのです。これは疑いようのないことです。
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