意根を薫修するとは、意根に正しく真実で法に適った道理を認めさせることが目的です。この薫修のプロセスは数学の証明問題を解くようなもので、ある問題の原理を絶えず分析し簡略化する過程そのものが、意根に証拠を示し意根を薫陶し、意根を明らかにする作業です。証拠が確実であれば意根が納得し、最終的に意根はこの道理を証得し、命題の正当性を承認します。これは既知の条件から出発し、既知の定理を組み合わせ、厳密な思考推論を加えて、最後に揺るぎない結論を得る過程に似ており、これを「証」と呼びます。この過程が求証のプロセスであり、「証」は求証とも称されます。「求」は推求を指し、意識による追求を意味し、その後ろには意根の支持と協力があります。「証」は証得であり、理解し明らかにすることです。
現在の問題は、五蘊十八界が全て空であり無我であるという結論を知りつつも、意根が理解せず承認しない点にあります。そのため意根に証明を見せる方法を考えねばなりません。一分を証明するごとに、意根は一分調伏され一分清浄となり、一分の功徳を得て大道に一歩近づきます。修行の本質はこの理にあり、仏陀が私たちに真理という結論を与えてくださった以上、私たちはその結論と真理の正当性を証明する方法を模索し、自ら真理を獲得し大智慧を得て、大解脱を成就しなければなりません。
修行において身心に変化が生じない場合、意識が証拠を意根に示しておらず、意根が承認していないことを示します。意根が身心に執着する限り、身心は解脱を得られません。したがって自己の修行における証明プロセスの有効性や証拠の十分性は、身心に変化が生じたかどうか、煩悩の境界に遭遇した際に突破できるかどうか、内心がさらに清浄になったかどうか、智慧の認知が生じたかどうかによって判断されます。これらがなければ証明が不十分であり、修行は未完成で、自らが掌握しているのは理論であって実証ではないことを意味します。我見を断じたか明心見性したかを検証する際、身心世界の転換が一つの基準となり、解悟か証悟かを判別する尺度となります。
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