衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年02月11日    木曜日     第1 回の開示 合計3084回の開示

罪業をどのように消除するか

作為の罪業は心性における罪業と行為における罪業に分かれます。心性の罪業を性罪と称し、行為の罪業を業罪と称し、両者を合わせて罪業と呼びます。もし行為上の罪業のみ存在し、心性上の罪罪がない場合、故意でない作為は無心の過失となり、これを過失と称します。例えば過失致死や過失殺生は、主観的に故意がなく、客観的に因縁によって生じたものです。このような過失による業は、世間法において罪責が比較的軽く、仏法上の果報も軽微です。

もし悪意をもって故意に犯した罪業は、その罪業は極めて大きく、その果報も非常に重いものです。悪意のみ存在し、心性が悪くても、例えば相手を妄想的に中傷したり、心中で呪詛したりするなど、実際の行動を伴わない場合は、心性の悪のみ存在し、これを意業とします。意業もまた種子を宿し、これも罪業となります。心性が汚染され、貪瞋痴が深刻であれば、後世において悪心に随順して報いを受けることになります。心は万法の主であり、心が動けば業が生じ、業があれば業報が生じます。影が形に随う如くです。

例えば鶏を殺す行為は、能動的な殺生行為であり、無心の殺傷ではないため、性罪と業罪の双方を有します。性罪には性罪の果報があり、業罪には業罪の果報があります。性罪の業は容易に消滅させることが可能で、貪瞋痴を誠心誠意悔い改め、今後再び造らぬことを誓願し、心性が真に変化すれば、性罪は消滅します。もし心性が改まらなければ、性罪は残存し、後世に報いを受けることになります。しかし業罪が残存する場合、これを如何に消滅させるか。実際の行動をもって補償し、相手が満足するまで補填する必要があります。

もし衆生が死亡した場合、実際の補償行為は困難となりますが、仏法上の修証を得て功徳福徳が大きければ、この罪業を消滅させることが可能です。例えば経文を誦し仏号を唱え真言を修して鶏を追善供養し、真に鶏を善趣に導くことができれば、この業は消滅します。将来鶏は逆縁となり感謝を捧げ恩返しをするでしょう。人間界に転生させても、猫犬に転生させても構いません。また自らが修行した全ての功徳福徳を鶏に回向し、鶏に懺悔を捧げ、鶏が真実の利益を得れば、業罪は消滅します。

もし罪業が消滅しなければ、遮障は極めて深刻となります。成仏はおろか、仏法の学習も円滑に進まず、日常生活にも支障を来たします。罪業の大きい者が極楽浄土に逃れんと念仏を修しても、臨終に業障が現前すれば、仏法を信じることさえできず、ましてや念仏など修することはできません。何故多くの者が仏法を学びながら途中で脱落するのでしょうか。それは業障が遮止となり、修道上がれなくなるためです。多くの者が学修する中で業障が現前し、抵抗できず退転し、屍の如く横たわり何も学ばなくなります。絶えず自らの罪業遮障を消滅させる方法を講じなければ、道業は進展しません。さもなければ業障が道を阻み、様々な変事が生じます。正常な仏法修学が不可能となります。懺悔と誓願は業障を消滅させ、業障に対抗できます。業障が軽減されて初めて前進を継続でき、さもなければ進まざれば退転します。故に希望を全て臨終に託すことなく、臨終前に後世の去向を解決すべきです。

——生如法師の開示
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