衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年02月09日    火曜日     第2 回の開示 合計3078回の開示

どのような方法で第八識の法を真に証得できるのか

『維摩経』には「法は見聞覚知すべからず、もし見聞覚知を行ずるならば、これは即ち見聞覚知にして、法を求むるに非ず」と説かれています。この言葉はどういう意味でしょうか。原文の意図は、第八識という法は見聞覚知によって認識できるものではなく、もし見聞覚知を用いてこれを理解しようとするならば、それは単にあなたの見聞覚知の作用に過ぎず、第八識を観ることはできないというものです。見聞覚知によって第八識を理解しようとするのは、第八識を求める方法ではなく、第八識を証得する方法ではないのです。

原文における「法」とは衆生の本体である本源の第八識を指し、この法は他の全ての法と根本的に異なります。この法は一切の法を決定し、無始劫来、衆生は迷い続け、絶えず妄法と枝葉を追い求め、本源の存在を知りません。本源の存在を知って初めて、本源を探し求め、本源に帰り、真実の姿に戻ることを理解するのです。

では、どうすれば本源に遡ることができるのでしょうか。求め方を知らない者は見聞覚知の機能作用を用いて探し求めますが、大多数の人はこのような方法を取るため、結局第八識の影すら見ることができず、仮に影を見たとしても何の役にも立たず、依然として本源に帰ることはできません。見聞覚知とは何でしょうか。見聞覚知は六識の機能作用であり、眼の見る、耳の聞く、鼻の嗅ぐ、舌の味わう、身の触れる、意の知るという、六識が六塵の境界を了別する方式です。六塵を了別する方式で第八識を探求し了別しようとするのは適切ではありません。なぜなら第八識は六塵とは明らかかつ巨大な差異があり、第八識を観ることは六塵を観る見方と同じであってはならないからです。そのため『維摩経』では「もし見聞覚知を行ずるならば、これは即ち見聞覚知にして、法を求むるに非ず」と説かれているのです。この言葉は深く味わうべきで、特に重要です。方法手段を誤れば、目的を達成し目標を実現することはできません。

経文の意図は明らかに、第八識を観ることは六識の見聞覚知の機能作用ではないと説いています。では何の作用でしょうか。誰が第八識を観るのでしょうか。ここでは意識の機能作用が明確に否定されており、意識のような見方を用いないことが示されています。意識にはどのような機能作用があるでしょうか。推理、思考、分析、想像、整理、帰納、総括、比較などです。つまりこれらの機能作用を用いて第八識を観ようとしても、第八識の本体を観ることは根本的に不可能であり、もし本当に観たと思ったとしても、それは偽物を観ているに過ぎません。もし有人が意識心で第八識を探し求め、自分は明心した、開悟した、証道したと思い込むならば、それは極めて大きな誤解であり、維摩大士はこれを許しません。もし大士が許さないことを、自ら固執し続けるならば、その結果は自己責任となり、責任を負える限りにおいて許容されます。

したがって、結局のところ、祖師方の証悟の方法こそが真実不虚であり、自らを欺かず他者を欺かず、少なくとも仏教を辱めることなく、良心に恥じないものです。繰り返しになりますが、意根という主人が証悟しなければ、付属道具である意識の作為に何の意味があるでしょうか。主人が尊口を開かなければ、語られる一切は無益です。よって如何なる法を証得するにせよ、世俗法を含めて、必ず主人である意根が自ら証し、親しく観て初めて親証と名付けられ、機能を受用し、一切の虚妄法を転換し、徹底的に究竟し、真実不虚となるのです。

——生如法師の開示
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