維摩経には「法は見・聞・覚・知によって知覚されるものにあらず。もし見・聞・覚・知を行ずるならば、これはすなわち見聞覚知なり、法を求むるにあらず」と説かれています。この言葉はどういう意味でしょうか。原文の意味は、第八識という法は見聞覚知によって認識できるものではなく、もし見聞覚知を用いてこれを知ろうとするならば、それは単にあなたの見聞覚知の作用に過ぎず、第八識を実際に認識することはできません。見聞覚知を用いて第八識を知ろうとするのは、第八識を求める正しい方法ではないのです。
原文における「法」とは衆生の本体である本源の第八識を指します。この法は他のすべての法と根本的に異なり、一切の法を決定づける存在です。無始以来、衆生はこの本源を見失い続け、妄法や枝葉を追い求めてきました。本源の存在を知って初めて、人は本源を探し求め、本源に帰り、真実の姿に戻ることを悟るのです。
ではどうすれば本源に遡ることができるのでしょうか。正しい方法を知らない者は見聞覚知の機能を用いて探求しようとしますが、大多数の人はこの方法で終始し、結局第八識の影さえ見ることができません。仮に影を見たとしても、それは何の役にも立たず、本源に帰ることはできないのです。見聞覚知とは何でしょうか。それは六識の機能作用であり、眼で見、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、舌で味わい、身で触れ、意で知るという六識が六塵の境界を了別する方法です。六塵を了別する方法で第八識を探求し了別しようとするのは根本的に誤りです。なぜなら第八識は六塵とは明らかかつ決定的に異なる存在であり、第八識を認識する方法は六塵を認識する方法と同じではあり得ないからです。それ故に維摩経では「見聞覚知を行ずるならば、これはすなわち見聞覚知なり、法を求むるにあらず」と説かれているのです。この言葉は深く味わうべき重要な教えです。方法を誤れば目的を達することはできません。
経文の意味は明らかです:第八識を認識するのは六識の見聞覚知の機能作用ではない。では何の作用か。誰が第八識を認識するのか。ここでは意識の機能作用が明確に否定されており、意識的な認識方法ではないことが示されています。意識にはどのような機能があるでしょうか。推理、思考、分析、想像、整理、帰納、総括、比較などです。これらの機能作用を用いて第八識の本体を認識しようとしても、根本的に不可能です。もし本当に認識したと思い込んだとしても、それは偽物を認識したに過ぎません。もし意識心で第八識を探し求め、自分は明心した、開悟した、証道したと考えるなら、それは大きな誤解であり、維摩大士はこれを認めません。大士が認めないことを自ら固執するなら、その結果は自己責任です。責任を負い得る限りにおいてのことです。
結局のところ、祖師方の証悟の方法こそが真実不虚であり、自らを欺かず他者を欺かず、少なくとも仏教を辱めず、良心に恥じない道なのです。繰り返しますが、意根という主人が証悟しなければ、従属的な道具である意識の作為に何の意味があるでしょうか。主人が尊口を開かなければ、語られる一切は無意味です。故に如何なる法を証得するにせよ、世俗法を含めて、主人である意根が自ら証し、この目で見て初めて親証と称され、真の機能を受用し、一切の虚妄の法を転換し、徹底的に究竟し、真実不虚となるのです。
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