感受する能は識心であり、識心は八つある。もし識心が我であるならば、識心が滅した時、我はどこへ行くのか。生滅を繰り返すのは幻化した仮の相であり、自らに主宰性がない故に我ではない。例えば木材や土、水が一定の法則によって混合され家屋を形成するが、この家屋は生滅幻化の仮相であり、自主性を持たない。崩壊すれば即ち散滅し、自主的な実有の法として執着すべき家屋ではない。
同様に、五蘊という所謂る我も七大種子の和合によって構成され、生滅を繰り返す不実の法である。自主性がなく、自我の主宰性もない故、我としても我所有としても認められない。従って五蘊は我でも我所有でもなく、貪り執着する必要はない。様々な部品で組み立てられた法を依存すべき我と見做してはならない。和合によって構成された法に依存しなくなればどうなるか。五蘊十八界を執取しなくなった時、何が残るのか。もしこのような考えが心にあれば、未だ断じ切れておらず、執着と求める心が残り、生死と苦が存在する。
我見を断つ際に我を明らかに理解できなければ、真に我見を断つことはできない。五蘊が第八識でなく、第八識と異ならないという結論に至れば、それは想像と推論に過ぎず、情思意解ですらなく、当然我見は断たれていない。五蘊十八界を如実如理に観行せず、心に五蘊十八界の我が存在し続け、ただ意識が五蘊十八界を第八識でないと認識するだけである。空の意味は極めて重要であり、観行を究めれば五蘊十八界が空であると悟る。空とは何か。究極的に空は無我である。もし不空があれば我が存在する。空の法を我と見做せるのは、五蘊の空を観行していない者のみである。
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