我々が仏法を学び如来蔵を証得し、自心を明らかにして本性を見る真の菩薩となるためには、菩薩が修めるべき法を実践しなければなりません。菩薩は六波羅蜜を修めるべきです。六波羅蜜の第一は布施波羅蜜であり、菩薩は必ず布施を修めねばなりません。一つの側面では衆生と善縁を結び、衆生が必要とするものを施すことで、衆生はあなたに信服し、共に仏法修行に従うようになります。もう一つの側面では自らの福徳を修め、福徳が具足して初めて悟りを開き、真実義の菩薩となり仏門に入ることができるのです。
自心を明らかにした菩薩は仏門に入りますが、未だ自心を明らかにしていない菩薩は仏門の外にあり、真の意味での菩薩ではありません。故に菩薩たるものはまず布施行を修め、自らの福徳を具足させねばなりません。また衆生と縁を結ぶことが必要です。衆生と縁を結ぶことで、衆生を救済する機縁が生じ、衆生は喜んであなたの随学弟子となり、あなたは衆生を導いて一歩一歩修行を進めることができます。成仏の時には、これらの衆生は皆あなたの仏国土で仏法を護持するでしょう。故に布施は極めて重要なのです。
第二は持戒波羅蜜です。戒律を守ることで心が矩を越えず清浄となり、罪業や過ちを犯さず、悪業の牽累を受けなくなります。戒律を守ることで心が清浄になれば禅定を得ることができ、禅定があれば観行や参禅を行い、真理を明らかにして第八識を証得できるのです。故に菩薩は戒律を守り心行を清浄にすべきです。真の菩薩に故意に戒を破る心はありません。もし故意に戒を破るなら、それは真の菩薩ではなく、性障がまだ重く、仏門に入る資格がなく真の菩薩とは言えません。真の菩薩となるためには必ず戒律を守り、最初は受動的に、次第に自発的に戒を守るようになり、最終的には守るべき戒がなくなります。心が既に清浄で戒を破る心がなく、全ての行為が自性清浄心と相応する時、積極的に戒を守る必要がなくなり、持たずして持つ状態となります。常に身口意の行いが戒律と仏法に叶い、如来蔵の体性と一致する。これが心の戒を守るということです。
第三は忍辱波羅蜜です。忍辱を修めることも心を清浄にし、自らの性障を降伏させ、衆生と善縁を結ぶことです。衆生が多くの辱めの境を与えても、心を忍んで衆生に報いず、衆生を瞋らず、そうして衆生との怨みを解き善縁を結びます。自らの心性と性障の煩悩も効果的に降伏でき、これが真の菩薩の心行であり、真の菩薩の証です。故に必ず忍辱波羅蜜を修めねばなりません。
第四は精進波羅蜜です。菩薩は必ず仏法において精進努力し、怠ってはなりません。どの方面で精進すべきでしょうか。布施において、福徳を修め衆生と善縁を結ぶことにおいて、持戒において、忍辱において、禅定を修めることにおいて、般若智慧を修めることにおいて、常に精進修行すれば善法は速やかに増長し、速やかに自心を明らかにして本性を見ることができます。これが生死の彼岸に至る精進波羅蜜です。
第五は禅定波羅蜜です。菩薩は必ず禅定を修め、心を一境に住し、散乱も昏沈もせず、定力を修得し、様々な観行を行って仏法を証得しなければなりません。この定には四禅八定の定と、大乗法・如来蔵法に対する心の決定という二つの定があります。菩薩は大乗法に対し確信を持ち退転せず、自心を明らかにして真の菩薩となる法、成仏する法、般若実相法に対し心を決定します。四禅八定の功夫、特に初禅以前の未到地定は必ず修得すべきです。これが観行参禅の基礎であり、この定があってこそよく観行し自心の本性を証得できるのです。故に禅定は極めて重要です。定は同時に福を生じ(定福)、最も重要なのは定によって大乗般若の智慧が増長されることです。故に定を修めることで生死の彼岸に至るのです。
菩薩の六波羅蜜最後が般若智慧です。般若とは何を指すのでしょうか。それは我々の自性清浄心である如来蔵、不生不滅の心体です。般若経典の主たるものは600巻の『大般若経』で、全て如来蔵を中心に説かれています。『般若心経』『金剛経』など多くの般若経典は、皆如来蔵の般若体性を説いています。これらの内容を修学し理を明らかにし、理を明らかにした後禅定を修め参禅するのです。六波羅蜜の条件が具足して初めて参禅する能力が生じ、時節因縁が具足すれば自性如来蔵を証得し、自心を明らかにして本性を見ることができるのです。
菩薩の修行は主にこの六つの方面を修めます。最後の般若波羅蜜が最も重要な修行内容です。全ての修行は大智慧を獲得するためであり、智慧があってこそ一切法を成就し、智慧に依って解脱を得、智慧に依って生死を超え仏道を成就できます。故に我々は皆努力して般若智慧を薫修し、如来蔵法を薫修すべきです。
しかし実際に如来蔵を証得するのは容易ではありません。我々は歴劫の間、五蘊十八界の仮相に執着し、七識の機能作用を我として実体視してきたため、自性を覆い隠し真法を識別できず、仮相のみを認めてきたからです。もし我見を断じた後、参禅して如来蔵を求めれば比較的容易になります。そのためには小乗の『阿含経』を修学し我見を断ち、初果・二果となって五蘊十八界の仮相を一つ一つ排除し、これらの仮相の中から真実を探求しなければなりません。
五蘊生滅の虚妄法の中から、不生不滅の明珠を探し求めるには、我見を断じてからが容易です。仮相を全て排除すれば真実が顕れるからです。我見を断つ前は、五蘊などの妄相を明珠と見做しやすく、五蘊を明珠と見做せば、真の自性如来蔵という明珠は見つけにくく、真偽が混在して区別が困難です。五蘊十八界を全て排除すれば、自性清浄心を見出しやすく、速やかに仏門に入ることができるのです。
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