衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月04日    金曜日     第3 回の開示 合計2592回の開示

真如自性に依止する主は誰か?

いわゆる依止とは依りどころを意味する。あたかも大樹の下に寄りかかるがごとし。大樹の堅固なるを知ればこそ、風雨を遮り、炎天を避け、身を休めることができ、同時に大樹の所在を知るがゆえに、大樹に向かって歩み至り、その木によりかかって坐臥することができる。また山に依って生きるがごとし。山中に種々の山菜や野獣の肉が食料となり、家屋を建てる木材があり、炊飯用の薪があることを知り、また山の地形・地勢・標高等の情報を知るがゆえに、山を目指して家業を営むことができる。

あらゆる事柄の運営は意根が主宰する。意根は総指揮者であり調整者である。もちろん真如を依止するこの法も例外ではない。それゆえ真如を依止する前に、意根は真如の性相を了知し、真如の所在を知らねばならない。その後初めて真如の性に依って自らの身心を調整し、心の働きを真如に向かわせ、種々の染汚を除去し、次第に清浄無為へと転じていく。このような過程において、意根は真如自性を証得しなければ依止・趣向について語る資格を得る。もし真如を証得しなければ、盲人が太陽を見ずして日輪に向かえないがごとく、真如へ趣向することはできない。ゆえに意識が証果し意識が明心しても、依然として盲人と異ならず、無為へ趣向することも、心を空じることも叶わないのである。

——生如法師の開示
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一つの法相に依止するのは、意識によるのでしょうか、それとも意根によるのでしょうか?

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