衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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日常法話

2020年08月19日    水曜日     第2開示 合計2554開示

第二月とは一体何なのか

第二月とは、眼で第一月を見るとき、目を捏む(捏目)ことによって、その中に幻として現れるもう一つの月であり、第一月とそっくり同じ、あるいは似通っている。第一月は常に眼前に如如不動であるが、第二月は、手が一つ動けば第二月も動き、現れる相は堅固でなく、生滅変異する。この特徴から、どちらが真月でどちらが妄月か、誰が誰に依って存在し現れているのかを判断することができる。第二月は第一月の中から現れたものであり、第一月がなければ第二月は捏み出せないし、捏む手もない。第一月は真心如来蔵(tathāgatagarbha)を喩えとし、第二月は如来蔵が変幻して現した五蘊世間法を喩えとし、目を捏む手は意根を喩えとする。最初のときには、意根と如来蔵のみがあり、五蘊も世間もなかった。意根が無明によって妄動し、外へ攀縁して求め取ろうとしたので、如来蔵は意根と意根の無明に依って、宇宙の器世間を変現し、続いて五蘊身を変幻して現した。第二月が現れて以後、世間は紛雑となり、生滅変異が止まず、真と偽が入り混じり、是非が分からなくなる。

意根はこの一切の法がみな自己であり、みな自己の所有であることを見るので、執著してやまず、生死はここから絶えることがなく、生命はここから六道の中を輪回し、苦しみ悩み、最初の寂静を失う。意根は最初の心の中に無明があったため、ぼんやりと混々として、寂静に安んじようとせず、無明が外へと汩発し、何かを明らかにしようと望んだため、世界はこれによって生成され、再び当初の懵懂の状態に回帰することはできない。

如来蔵が変現したこれらの世間法は、すべて如来蔵から来たものであり、すべて如来蔵の影であり、いずれも第二の如来蔵でもある。あなたはこれらの法を如来蔵であると言うこともできなければ、如来蔵でないと言うこともできない。是でもあり非でもあり、非でなくても是であり、その関係は微妙である。心中の無明の遮障がすべて除かれたとき、あなたはこれらの法の実質を見抜くことができ、如来蔵であるか否かを、自らはっきりと明らかに分かるようになり、他人が是非を言う必要はなく、自らの心の中に自ずから決断がある。もし眼に翳病がなければ、どうして燈光の中の円影を見ることができようか。もし心に無明妄想がなければ、どうして手で目を捏み、妄に五蘊世間の第二月、月影、影月を現し妄見することがあろうか。

最初には、意根が寂静不動で境界が現れていないように見えるが、実は止水澄波のように平静なのではなく、実際には無明がずっと暗湧しており、暗湧の力が大きくなると、表面の寂静を打ち破り、宇宙大千が闊然と現れ、衆生の生死輪回の因縁がついに具足し、衆生の生命体が出生したのである。世間法はどこから来たのか。いずれも七大種子から構成され、如来蔵から来たものである。七大種子は如来蔵の財富であり、如来蔵は自らの財富で一切の法を創造した。では、あの一切の法は果たして何なのか。これはすでに明らかであろう。

——生如法師の開示
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前後世の因果を繋ぐ意根

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