衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2020年08月11日    火曜日     第3開示 合計2528開示

すべての修行は意根の修行を含む

問:大小乗のすべての証果は、必ず第六識と第七識の二識が共に転じたものでなければなりません。もし意識だけで道理を明らかにしただけで、末那が転じていなければ、せいぜい思慧の成就にすぎず、実証であるとは言えません。ところが小乗の仏法、たとえば『四念処経』において、世尊が教えられた種々の観行法門は、明らかに意識が修するものであり、意根末那識については語られていません。お尋ねしますが、意根は証果の時にどのようにして無漏へと転じるのでしょうか?

答:世尊が法を説かれる際、意根もまた観行の修行に参与すべきであると明確に指摘されてはいませんが、すべての修行には意根の修行が含まれています。ただ、人が禅定を持たない場合、修行は意識の次元だけにとどまりますが、禅定がある場合には、必ず意根のところに及びます。たとえ意根を理解せず、意根の体性を知らなくても、自然と意根のところに落ち着くのです。すべての衆生は眼識の存在を知らないけれども、すべての衆生がずっと眼識を使い続けているのと同じ道理です。

世尊が四念処観を教え導かれたとき、衆生はただ正直にこの教法に従って修行すれば、禅定が生じます。禅定さえあれば、観行は必ず意根のところに及び、意根も意識と共に観行し証果します。その後、意根は身心世界を変化させ、法眼浄の三昧の中に安住することになります。もし正直に世尊の教えに従って修行せず、抜け駆けをしようとする心理を抱いているならば、必ず禅定は生じず、意根も薫染されることなく、共に観行することもないので、証果することはできず、法眼浄の三昧の境地も現れることはありません。

——生如法師の開示
前へ前へ

重罪軽報の原理

次へ 次へ

意根が一切法を黙して容れることの含意

ページトップへ戻る