衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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日常開示

2020年07月22日    水曜日     第1 回の開示 合計2481回の開示

屈折の原理による色を見る際の錯覚の解説

目が色を見るには光が必要であり、光は色を見る条件の一つである。光がなければ色を見ることはできない。光は色塵を浮き彫りにする役割を果たしており、色塵が光源の中にある限り、色塵を浮き彫りにすることができる。その後、如来蔵は色塵上の四大の微粒子を摂取し、眼の浮塵根に伝達し、さらに神経伝達システムを通じてブラックボックスに伝達する。しかし、眼識が識別する色塵などの六塵の境界はすべて虚妄の影であり、元の六塵の境界とは一定の差異がある。ブラックボックス内の六塵は外部の実質的な塵境ではなく、幻化された鏡の中の像である。

屈折の原理を用いれば、眼識が見るブラックボックス内の色塵が外部の真の原色塵ではなく、変化を遂げた原色塵に似た色であり、真の色ではないことが説明できる。光の伝播には一定の速度があり、異なる媒質中では伝播速度が異なる。これは異なる媒質の物質構造が異なり、抵抗が異なるためである。光が二つの媒質を通過する際、媒質の境界面で伝播方向が変化すると、屈折現象が発生する。媒質の境界面にちょうど色塵が存在すると、光はその場所で色塵を浮き彫りにし、二つの媒質中で浮き彫りにされた相は変化を起こす。

例えば空気と水という二つの媒質は、光の伝播に対する抵抗が異なる。光が空気中から水中に伝播すると、伝播方向が変化し、浮き彫りにされる色塵も変化するが、色塵自体は変化しない。例えば箸を水中に半分挿すと、光は空気中の箸と水中の箸をそれぞれ浮き彫りにし、位置が変化するため、眼識は箸が曲がって見える。この曲がった現象は、勝義根のブラックボックス内に現れるのか、それとも眼根に伝達される前の外相分の本質境に現れるのか?

もし外色塵の本質境にある箸が曲がっているなら、水から箸を取り出した後、箸は曲がったままなのか?本質境の箸はどの媒質中にあっても変化せず、そうでなければ媒質から取り出した際に形が変わるはずだが、実際には変化せず元のままである。ブラックボックスは人を欺くのか?眼識は人を欺くのか?あなたはまだ自分の目を信じるか?自分が見るものがすべて真実だと信じるか?六識が了別する一切の法が真実だと信じるか?まだ自信があるか?毎日あれこれ論じ、これが正しくあれが間違いだと主張するが、本当に何かを見極めたのか?

目撃者が物を盗むのを見ても、必ずしも盗みとは限らない。現行犯逮捕されても事実とは限らず、証人や証拠があっても真の証拠とは限らない。殴られ罵られても必ずしも憎まれているわけではなく、世話されても必ずしも愛されているわけではない。言葉が鋭くても必ずしも冷酷ではなく、雷のような勢いがあっても必ずしも残忍ではない。眼光が正しくなければ真実を見ず、心の光が正しくなければ事実を感知できない。

箸の曲がりは実際には光がもたらす錯覚であり、箸自体は曲がっていない。光の伝播方向が変化したため、箸の相対的位置が変化したように見えるだけである。如来蔵が光に浮き彫りにされた二つの箸の影を勝義根に伝達すると、眼識と意識は曲がった箸を見るのである。

同様に、太陽光が水中に入射すると光線の方向が変わり、水を浅く見せるが、実際の水は浅くない。浅く見えるのは眼識と意識の錯覚である。光線は水中の魚の位置も浅く見せ、その位置で魚を捕まえようとしても捕まらない。魚は眼識の見る位置ではなく、その位置の斜め下方に存在し、眼識では見えない。

光は我々に錯覚をもたらすが、闇も同様に錯覚をもたらす。闇の中では、何か恐ろしいもの、予測不能なもの、制御できないものが自分を脅かすのではないかと感じるが、実際には何も存在しない。ただ独頭意識が妄想的に考えているに過ぎない。

——生如法師の開示
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