衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年06月25日    木曜日     第1 回の開示 合計2425回の開示

如何にして真を見、妄を去り、無明を破るか

衆生の悩み苦しみの根源は、真実でない相(すがた)を見て、相を見て真ならず、かつ相を執着することにある。相を執着できないと感じるとき、心に苦悩が生じる。したがって苦悩を解決する根本は真実相を見ることにあり、虚妄の相・仮の相・空の相を見ず、相を見る際に正しい知見を具え、誤った見解や邪見がなければ、執着しようと思わなくなり、こうして苦悩は生じず、当然ながら相から解脱する。

どうすれば真実相を見て誤謬の相を見ないか? それには相の本質と根本を認識し、知見を世俗の法相に落とさず、法相の世俗的相貌を打破すれば、表層から深層へと法相の根本と本質を見ることができる。こうして誤謬の見解がなくなり、正真に見えれば、法相が根本的に執着に値しないことを知り、相にありながら相を離れ、執着心が消滅し、解脱自在で煩悩なくなる。

どうすれば法相の世俗的相貌を打破できるか? まず世俗の法相が何を含むかを知る必要がある。世俗的に定義される様々な色・声・香・味・触、そして種々の法相に含まれる形態・質感・趣・世俗的機能がある。衆生はこれら様々な機能と趣を実体あるものと見なすからこそ貪着を捨てず、貪り得るか得ないかにかかわらず苦悩し、楽も苦悩となり、憂いや憤りも苦悩となり、全ての感覚が苦悩でないものはなく、心をかき乱し寂静清涼を得られない。これが苦である。

これらの世俗法相は真に存在するか? もし真に存在するなら、生じることもなく、変化せず、老いることも古びることもなく、消滅もしない。現に見る世俗法相は全て無常であり、生滅し変異する。世俗法相が無常であるなら、すなわち空であり、得がたく、得られない。世俗法相が空で得られないなら、苦である。空で得られないから苦が生じ、これが苦相である。世俗法相が無常・苦・空であるなら、我ではなく、我の所有にもならない。生滅変異する無常の法相を我と見なす知見は誤謬で道理に反し、愚痴の考えである。この考えを断滅させ正見を得て、執取らず執着せず解脱し、自在清涼を得る。

どうすれば真実相を見て知見を世俗法相に落とさないか? 一切の世俗法相が本心如来蔵より生じ変わり創造され、その後如来蔵がこれらの法相を縁とし、かつこれらの法相を了別することを明らかにすべきである。しかし如来蔵はこれらの法相の世俗相を見ず、見るのは法相の種子の組み合わせ相のみで、これらの法相における各種子の配置状態を知り、常に業種を了別し、業種に従って種々の種子の比率構造を調整し、種子の分布状態を調整する。これにより法相は絶えず業種あるいは意根の思心所に従って変化する。

如来蔵が種子を見て世俗相を見ないため、色声香味触法を知らず、内心で世俗法を分別せず、心は清浄で煩悩なく、生死の業を造らず、生死輪廻の苦がない。我々が分段生死苦と変易生死苦から脱するためにも、如来蔵のように心中の世俗法相を消滅させ、法の真諦と本質を見れば、心はますます清浄になり、仏心に近づき、最終的に仏陀と等しく、無住処涅槃に住し、常寂光土に処し、寂滅無為となる。

一切の世俗法相が真に存在しないのに、なぜ衆生は見ることができるか? これが衆生の無明の働きによる。真実相の上に虚妄の見解と思惟を起こし、さらに虚妄の行いを起こし、虚妄の業を造り、虚妄の果を得て、虚妄の輪廻を受ける。例えば、明らかに松明が速く揺れているのに、衆生は無明のため松明を見ず、存在しない火の輪を見て、火の輪を実体あるものと執着し、生死輪廻の苦が生じる。衆生が世俗法相を見るのも同様で、無明のため本来存在しない相を実体あるものと見なし、本来実体ある真法を見ず、誤った見解により生死の業が生じ、輪廻の苦が絶えない。

例えば夏の炎天下で水蒸気が砂浜に反射し、喉の渇いた鹿が錯乱して何もない砂浜に河水を見て執着し、近づけば何もない。無明の妄見により衆生は何も得られず、虚妄相を執着したため生死の惑業苦を受ける。なんと無駄なことか! したがって無明を打破し実相を見ることが修行の最重要課題であり、最終目標である。実相を見れば無明が打破され、虚妄の想いが次第に滅し、虚妄相を執取せず生死の業を造らなくなり、惑い尽き業消えて自性サルヴァジニャーの海に回帰し、一真法界・寂静涅槃となる。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

ブラックボックスは舞台であります

次の記事 次の記事

道業が進まない時は反省することを学びましょう

ページのトップへ戻る