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日常開示

2020年06月20日    土曜日     第1 回の開示 合計2412回の開示

真妄心の区別

『楞嚴経』原文:たとえ一切の見・聞・覚・知を滅ぼし、内に幽閑を守るも、なお法塵たるべく、分別の影事なり。われ汝に命じてこれを非心と執せしむるにあらず。ただ汝が心において微細に推量し、もし前塵を離れて分別性あらば、すなわち真の汝が心なり。

釈:たとえ座禅や修定の過程において、禅定に入り、一切の見聞覚知を滅ぼし、見ず聞かず覚えず知らず、心の内に幽玄で閑寂な境界を守り、清らかで静寂な明瞭な状態にあっても、この境界は依然として法塵であり、独頭意識によって分別された影の塵境である。私はこのような境界を「自心にあらず」と強要しているのではない。しかし汝が心の内でさらに微細に探求し、真実の心と妄心を細やかに弁別すべきである。何が真の汝が心なのか?もし眼前の心中にある一切の塵境を離れても、この心に分別性が残り、なお作用を起こすならば、この心こそが汝の真実の心であり、妄心ではない。

「前塵を離れて分別性あり」とは何か。この前塵とは六塵の境界を指し、色・声・香・味・触・法の内六塵境を含む。法塵には空々落落とした禅定の境、各種の独影境、夢境、狂乱の境界などが含まれる。これら一切の六塵境界を離れても、その心がなお存在し、分別性を有するならば、それが真の本心である。その分別性とはどのようなものか。六識が六塵を分別するのとも、意識が法塵境を分別するのとも異なり、真実の心は六塵や法塵境を分別せず、清浄か否か、空かどうか、念ありや無し、快適かどうか、明瞭か否かといった意識分別の内容を超えている。つまりこれらの内容を知覚するのは意識心であって、本心である如来蔵ではない。真実の心が分別する主な内容は種子の領域であり、この分別性は意識が転識得智していない限り観察しがたい。

仏陀は『楞嚴経』において特に我々に諭された。禅定中の清浄な妄心は本真の如来蔵ではない。この一節は、定盤星を誤って認定する者を叱責された世尊の教えである。彼らは定境の法塵を真如心体の如来蔵と見做すが、この禅定の境が生滅法であり、先に無く後に有り、有って後また無くなるもので、到底捉えられず把握できないものであることを知らない。これは不生不滅・不増不減の本心如来蔵ではなく、元来清浄で人為的な清浄を要しない如来仏である。如来仏がわざわざ清浄にされることを待って認識されるべき存在であろうか?そもそも清浄でなかったというのか?

座禅で心が一時清浄になり、見聞覚知を全て滅ぼしたかのように感じ、心が澄み切って何事もない状態であっても、これも意識心が定境の法塵を分別したものであり、妄心が深甚な禅定の境界に入った状態に過ぎず、本心如来蔵ではない。真実の心は、汝が分別する一切の法を離れ、清浄さを離れ、歴歴たる孤明を離れ、明瞭さを離れ、明白さを離れ、これら全ての塵境を超越し、常に自ら存在し、世俗の法相を分別せずに特有の分別性を保持する。妄念無き一念不生の法塵境界は、第八識如来の分別する法相ではなく、故にこの時の分別心は真実の自性ではない。

——生如法師の開示
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