衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年05月07日    木曜日     第2開示 合計2328開示

福德はどのようにして得られるのか

いわゆる福とは、他人のため、団体のために働き、代価を払うことによって得られるものです。外に向かって付出しさえすれば、報いを得ることができます。

外に向かって付出し、他人を利益するのであれば、それが徳です。仏法では、この二者をしばしば一つに結びつけています。しかし、世俗法における福德と、仏法の修学における福德とは、やはり差があります。たとえば雷鋒が福を修め、衆生のために善事を行ったとしても、この種の福德は世俗法の中でしか享受できません。彼は仏法において善業を種み、因縁を種んでいないので、仏法とはまだ縁がなく、仏法において利益を得ることができないのです。

一方、仏を学ぶ人は、世俗法において福を種むだけでなく、仏法においても福を種みます。三宝に帰依し、三宝を供養し、戒定慧を勤めて修めることは、これこそ福を修めることであり、徳を修めることでもあります。この種の福德は、世俗法の中で享受できるだけでなく、仏法においても享受することができるのです。

福德によって、私たちは仏法における修行が非常に速やかになり、道業が急速に進みます。福德は私たちが仏道を成就する基礎であり、道糧であり、資糧です。福德がなければ、仏を学び修行しても何一つ成し遂げることはできません。それゆえ、菩薩の修行は菩薩の六度を修めるべきであり、その第一度こそ布施による修福です。開悟の前には布施して福を修め、悟った後にも布施して福を修めなければなりません。初地に入って以後も、なお布施して福を修めてこそ、道業は絶えず進んでいくことができるのです。このことからも、福德がいかに重要であるかがわかります。

いわゆる布施とは、最も重要なのは自分の慳貪心を布施することです。慳貪心があれば、必ず貧窮の果報を得ます。誰が最も貧しいでしょうか。もちろん餓鬼が最も貧しいのです。餓鬼は腹が太鼓のように大きいのに、咽喉は針の目のように小さく、一切の飲食物を口に入れることができず、ただ飢えに苦しむしかありません。喉が渇いて川を見つけ、飲みに行こうとしても、福が薄いがゆえに、川の水はたちまち火に変わり、口に飲むことができず、ただ喉の渇きの苦しみに耐えるしかないのです。このような貧窮の果報では、どうして菩薩となり、菩薩道を行うことができましょうか。

菩薩は大福德の人であり、生生世世、人の中、天において菩薩となり、その果報は非常に殊勝です。人の中では人王となり、天では天王となり、転輪王となり、大鬼王となり、慈願力によって悪道の衆生を度しようとするのでない限り、永遠に三悪道に堕ちることはありません。菩薩の果報は、すべて生生世世、累劫にわたる布施の結果なのです。

それならば、慳貪心は菩薩心と相応しません。慳貪心がある人、あるいは慳貪心の重い人は、菩薩になることができません。どれほど参禅して工夫しても、破参開悟することはありません。それゆえ、菩薩になろうとするなら、まず布施行を行じ、自分の福德を修集し、福德の資糧をもって自分を荘厳しなければならないのです。

布施行をよく修めた菩薩は、心心念念、衆生を利益することを思い、相手の立場に立って考え、布施に慣れ親しんでいます。もしある日、衆生に布施せず、衆生を利益しなかったなら、心が安らぎません。菩薩は、たとえ衆生とまだ会っていなくても、「私は彼に何をもたらすことができるだろうか」と考えます。このような菩薩こそ、大福德の菩薩であり、生生世世、物質生活に恵まれ、常に衆生の指導者となります。このことから見ても、修行において布施を決して軽んじてはならず、布施を決して行わないでいてはなりません。布施こそ最も実際的な修行であり、実修と名づけられるものです。菩薩道を行く人は毎日自分を点検すべきです。今日、私は布施しただろうか、と。こうすることで、道業は急速に進んでいくのです。

——生如法師の開示
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