衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年01月22日    水曜日     第1開示 合計2115開示

仏法上の智慧は世間法の智慧から離れることができるか?

無明とは、その意味は分からないこと、明らかでないことであり、一切の万法に対する分からなさ、明らかでなさを含みます。諸仏は一切の無明を断じ尽くし、出世間の一切の法を明らかにし、また世間の一切の法をも明らかにしておられ、明らかでない法は一つもありません。世俗法の中の任意の一法について仏陀にお伺いしても、仏陀が明らかでなくて答えられないということはありません。したがって、世俗法が通達しておらず、人としての振る舞いや物事の処理ができないということは、それが無明であり、その人の仏法もまた通達していないのです。

諸仏および諸地の大菩薩は、仏法に通達しているだけでなく、同時に世俗法にも通達しており、世間で衆生と関わる際には、いずれも衆生の心を明らかにし、世間の事を明らかにして、その判断は世俗に背かず、広く衆生を度すことができ、衆生に度されることはありません。

仏法においてどの程度通達しているかということは、それに応じて世間法においてもどの程度通達することになります。仏法と世間法は相輔相成の関係にあり、世間法を離れて仏法を成就できるということはありません。もしできるとすれば、仏法は世間法と無関係ということになりますが、実際には仏法は常に世間法を離れることができず、世間法と緊密に結びついています。仏法は世間法を効果的に導くことができます。もし仏法において智慧が高いのに、世間法では至る所で壁にぶつかる人がいるとすれば、それはこの人の仏法が通達しておらず、真の仏法上の智慧を持っていないことを示しています。いわゆる智慧は、ただの乾慧にすぎないのです。

諸地の大菩薩から仏陀に至るまで、いずれも世間において宰官・大臣・君主となり、さらに転輪聖王や各層の天の天主となることができます。世間法は必ず通達していなければなりません。さもなければ、どのようにして君主・転輪聖王・天主になることができるでしょうか。どのようにして衆生の俗界の事務を管理し治めることができるでしょうか。どのようにして大衆を服させ、率いることができるでしょうか。

智慧は相通じるものであり、仏法上の智慧が世間法の智慧を離れて単独で存在することはあり得ません。仏法は世間法の上で実践されなければならず、世間法の上で実践がうまくいかないということは、仏法もまた通っていないことを示し、それゆえ世間法に応用できないのです。仏法上の証量は、いずれも世間法の上での身口意行を通して現れなければなりません。身口意行が転変して清浄になっておらず、物事の処理が円満でないということは、この人の道行がまだ十分でなく、定力・福徳力・智慧力のいずれもが不足していることを示しています。それゆえ、世間法を離れて現れることのできる仏法は存在しないのです。

——生如法師の開示
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