意根には想念の法があり、それ故に思量と審査を行う。まず念が存在し、その後思量と審査が起こる。念がなければ思量は行われない。もし意根の心が空空であり、何も念想しないなら、思想活動は存在せず、何も審査や思量を行う必要がない。この時、意根は清浄である。しかし意根が降伏されていない時、攀缘は比較的重く、心の念头は非常に多い。故に心は不断に終わらない思量、琢磨、審査、评判、衡量を行う。昼間解決できず、夜間続けて審査と思量を行い、深刻な夜中に目覚め、眠れなくなる。故に衆生の意根は恒常の審思量性があると言われる。意根が降伏された阿罗汉たちは、心にはほとんど念头がなく、事をあまり思わない。意根は偶尔に思量を行うが、恒常ではない、故に恒と呼ばれない。故に意根が思量法を行うなら、念头が存在する。思量の法は念头であり、意根の所念である。
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