衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年09月24日    火曜日     第1開示 合計1930開示

事に随いて行を取り、識に随いて行を取り、如に随いて行を取る

事に随って行を取り、識に随って行を取り、如に随って行を取る。行とは、識心の活動であり、特に六識の識心の活動を指し、菩提行、菩薩行、修行を含む。この文では主語である意根が省略されている。なぜなら、取るというのは、主として主たる識である意根が執取することであり、その後に六識の行が生じるからである。六識がどのような行を為すべきかは、意根がどのような取をするかにかかっている。では、意根は何に基づいて取るのか。事相に基づき、六識の了別・思择・判断に基づき、業に基づき、菩提心に基づき、願力などに基づく。最後の「如」は、一般には真心自性を指すが、凡夫の衆生の意根は真心自性の存在を知らず、証悟していない菩薩もまた真心自性がどれであるかを知らないので、真心の思择に直接随順することはない。しかし、真心が業種に随順して業行を現行させようとするとき、意根は業種に随順して抉択をなし、思择を起こす。これもまた意根の行である。

一つの文の中で主語、述語、目的語を見つければ、主語が何をしようとしているのか、対象が何であるかが分かる。この三つの文の中では、主語は明示されていないが、述語に「取」という字があり、その後に目的語の「行」という字があるので、主たる識のみが法を取り、行を取って行を抉択できるのだと判断できる。

取の前提条件は、事に随い、識に随い、如に随うことであり、事・識・如という三つの字の内包をはっきりさせれば、意根が取る行が何であるかが分かる。意根はどのような法を執取しようとも、取った以上、その後には必ず行がある。ならば、意根が抉択した後は、すべて六識が執行するのだと知るべきである。六識の行とは五陰の身口意行であり、善行か悪行か、大きな行か小さな行か、無我利他の行か、それとも利己的な行かである。

取とは、意根が執取することであり、その後にのちの法が現れるのだから、一切法の出生、三界世間の存在、五陰身の輪廻などは、すべて意根の執取の結果であると知るべきである。ならば、三界の法の仮の主人は間違いなく意根に属し、意根の重要性は六識をはるかに超えている。意根が法を取らなければ、六識は出生せず、六識が意根の取を実現する必要もない。

十二因縁の中で、意根の執着がなければ、生死輪廻は存在しない。生死輪廻において、意根が主因であることが分かる。では、意根はなぜ執着するのか。無明だからである。意根の無明がなければ、一切法はすべて廃し、存在しない。それゆえ、あれほど多くの学仏者が、意根の上で用功し力を注ぐことなく、意識のみに気を配り、主人を顧みることなく、むしろ僕に随順するのは、いずれも対象を誤っているのである。その結果は何か。骨折り損のくたびれ儲けで、徒労に終わる。今日に至り、証悟の原理はすでにはっきりと徹底的に講じられているのに、なお意識だけで断我見・明心ができると主張する者がいる。これはいったいどんな知能なのか。実に賛嘆する気にはなれない!

修行者は問題に遭遇したとき、如理に思惟することを学ぶべきであり、一定の論理的思考能力を持つことこそ、自分自身の最大の財産であり、生生世世にわたって受用し尽くすことができないものである。

——生如法師の開示
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相に住することが少なければ、証悟しやすい。

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