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七覚支概説

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年08月31日 閲覧数: 5498

七覚分は七覚支とも呼ばれ、具体的には、念覚支、択法覚支、精進覚支、喜覚支、軽安覚支、定覚支、捨覚支に分けられます。

第一に、念覚支です。ある法を修学したとき、心心念念その法に縁し、混じり気がなければ、これが念覚支の成就です。

仏法を修学し始めたばかりの頃は、ある法に縁して修しますが、縁しているうちに心念が転じて途切れ散ってしまい、心の中にもはや念じておらず、その法が現前しなくなる、このときはまだ念覚支が成就していません。たとえば浄土の念仏法门を修習する場合、初めは仏号に縁しますが、縁しているうちに散ってしまい、心の中に仏号がなくなり、往生の念もなくなったなら、このときは念覚支が成就していません。ある法をある程度まで修めると、功夫が綿密になり、念覚支が生じてくると、法に対して念念忘れず、このとき念覚支はすでに修習成就しています。

たとえば四聖諦の理を修行するとき、心心念念がことごとく四聖諦の理であり、心念がことごとく苦集滅道の理を観行し思惟しているなら、念覚支は修成しています。初めのうちは心が四聖諦法を念じ執せず、四聖諦法に対する思惟も観行もなく、思いもないのですが、やがて心心念念が苦集滅道に縁するようになると、縁に遇い境に対するとすぐに思い起こします。この法は苦である、苦はどのように現れるのか、どのように集結してくるのか、どのように修道しどのように苦を滅すべきか、と、心念が時刻として苦集滅道を離れない、このとき四聖諦法の念覚支はすでに成就しています。

念覚支は七覚支の中の第一の覚支であり、念覚支の成就は、われわれが仏法を修学するうえで首要の条件です。もし念念に修学すべき正理に住することができなければ、正理に対して精進できず、正理に対して喜楽を生じることもできず、軽安を生じることもできず、正理に対して択択と決定を生じることもできず、心の中で不如理作意と不如理の法を捨除することができず、依然として世俗の貪瞋痴の煩悩に執することになります。

たとえば菩薩の六度を修する場合、心心念念を菩薩六度の修行に縁らせると、時刻として自分の内心を点検し、自分の布施の福徳がどのように積まれているか、自分の持戒の状況はどうかを確認し、犯戒に遇ったときにはすぐに思い起こします。私は厳格に持戒すべきであり、違犯があってはならない、と。禅定を修しているとき心が散乱したら、自分で警覚すべきです。私はいま禅定がない、心を収摂して戻すべきだ、と。般若の智慧が不足していて、仏経に遇って読み解けないときには、自分の般若の智慧がまだ不足していることを知り、努力して補うべきです。ある法理がまだ分からないうちに、また世俗の境界相の中に落ちてしまったら、自分で知るべきです。私の般若慧の修めの程度はまだ甚だ劣っている、さらに精進すべきだ、と。このように、心が念覚支の状態にあれば、菩薩六度に住することになります。念覚支が成就してこそ、精進して菩薩六度を修学できるのです。念覚支が成就したとき、心念は法と相応し、時時刻刻法を念じています。心念が法と相応しなければ、念覚支は成就しておらず、半分あるいはある一部分だけが成就しているにすぎません。念覚支が成就したのちは、時時刻刻仏法を念じ、能動的に仏法を観行して、はじめて仏法を証得できるのです。

念覚支は仏法修学の初級段階です。念覚支が成就したのち、後の択法覚支、精進覚支、喜覚支、倚覚支、定覚支、捨覚支がはじめて成就できます。自分に念覚支があるかどうか、心の中で明らかに知っているべきです。念覚支が生じていない前には、生じていないことをはっきり知り、生じたのちは、すでに生じたことをはっきり知るべきです。もし念覚支が修め足りなければ、急いで修行を強化すべきです。修行の中で、われわれは時時刻刻自分の心念がどの状態、どの程度にあるかを点検すべきです。自分に対して関心を持ち了解を加えてこそ、自分を改善し、自分を完成させることができます。もし自分を了解しなければ、自分を対治できず、自分の修めを完成させることができません。

どの法を修行するにも念覚支があり、念覚支にも階層上の差別があります。たとえば唯識を修学する場合、念覚支が成就しないのはきわめて正常なことで、これは菩薩の道種智に属し、われわれの智慧力が不足しているため、念覚支を成就させることは不可能だからです。しかし、われわれがいま修学すべき法のうえでは、念覚支を修学成就させるべきです。たとえば我見を断していない人は、心の中で時時刻刻、断我見の内容である五蘊空無我を念じ、念念に五蘊の生滅無常を観行し、心念がことごとく断我見の理と相応しているなら、このとき念覚支が生じています。成就したかどうか、円満したかどうかは、さらに一歩進めて点検する必要があり、念覚支が成就し円満するまで続けます。

参禅の段階では、菩薩六度の方面の念覚支が成就しているかどうかを点検し、般若智慧の修習の程度がどうであるか、内心が般若という法に縁できるかどうか、縁に遇ったとき般若空性を連想できるかどうか、すべて第八識の現じた法であると意識できるかどうかを点検します。あるいは、一切の法に接触するときには、第八識が究竟どこに所在するかを探し求め、時刻として念じます。私はどのように明心し、どのように証悟し、どのように参禅し、どのように修定すべきか、と。これがわれわれがいま修学において具えるべき心念であり、かつ念覚支を不断に増進させるべきです。もしわれわれの心念が世俗の法のほうへ走ってしまったなら、心念がまだ堅固でないことを示し、念覚支がまだ成就していないのであり、自分の心念力をさらに強化すべきです。

択法覚支です。自分の内の択法覚支が生じているかどうかを知るには、法に対する自分の弁別力を細心に点検しなければなりません。一定期間の点検を経たのち、自分に一定の弁別力があることを確認できれば、自分の内の択法覚支がすでに生じていることが分かります。自分の修行の状態、内容、程度に対してすべて反観を加えれば、修行には歩序があり、階層があり、内容があることになります。これらの歩序が心の中ではっきり分かれば、われわれがいまどのように修学すべきかが分かり、心が乱れて方向もなく、何を見てはその法を学ぶというのではなく、次第と歩序をもって修学し、着実に修行するようになります。こうなれば、自分の内の択法覚支がすでに修習成就したことが分かります。

択法覚支とは、いま修すべき法に対して一定の択択の力をもち、この法が正か邪か、大か小か、仏法の中でどの階層に属するかを心の中で了解していることです。自分の智慧の階層と相応する法に遇ったとき、正しい択択力をもち、正しい択択を下せるなら、択法覚支が生じて、択法眼を具えたことを示します。

択法覚支があれば、どんな法に遇っても、どんな人が法を説いても、一定の弁別力と択択力をもちます。この師の説く法が大乗か小乗か、正道か邪道か、仏意に合致するかどうか、その師自身の智慧の階層がどこまで達しているか、自分と衆生の断我見を助けられるかどうか、自分と衆生を明心見性へ導けるかどうか、一定の択法眼をもって弁別し択択すべきです。この法を修すべきかどうか、いつ修すべきか、自分の心の中で一つの量度をもってこそ、正しい択択を下すことができます。

きわめて高深な法に対しては、当面択択力がなくても、正常なことです。ある人は、自分より少し階層の高い法に対しても一定の択択力をもちますが、この択択力は決して大きくなく、十分なものではありません。択択の力が強大でなくても、粗略な弁別ができればそれでよいのです。

第三に、精進覚支です。もし択法覚支がなく、択法眼を具えていなければ、精進できるでしょうか。真の精進はできません。たとえば二本の道があり、一本は正しく、もう一本は正しくないとします。もし選び誤れば、南轅北轍であり、精進の方向が間違っていれば、精進すればするほど正道から遠ざかるのではないでしょうか。それゆえ、精進覚支が生じる前に、択法覚支を具えるべきです。

正しい修行の道、修行の法を選び、あるいは明師を一人選んだのちにこそ、ある法に対して精進に修行したり、ある師に従って精進に修行したりできます。これが正精進です。もし択法覚支が完善でなく、正しくない仏法修行の道を選べば、精進すればするほど精力を浪費し、時間を遅らせます。これが邪精進であり、正精進なら、精進一分につき一分の智慧の成就を得られます。

精進には多くの方面が含まれます。たとえば菩薩道を修行するなら、布施、持戒、忍辱、禅定、いずれも精進しなければなりません。どんな法でも、明心見性に向かえるものであれば、すべて精進に修行すべきです。これが精進覚支です。内精進は意根の精進であり、これが真精進、究竟の精進です。外精進は意識の精進であり、まだ真の精進ではなく、引き続き意根を薫習する必要があります。

第四に、喜覚支です。一定期間精進したのちの結果は何でしょうか。ある法の修学の方向が正しくなると、一種の喜楽の心が生じ、学べば学ぶほど心の中が喜び、法喜に満ちあふれ、学べば学ぶほど達成感を覚え、内心に一種の軽微な解脱の功徳を獲得します。いわゆる喜楽とは、一つには内心の喜悦であり、もう一つは法に対する愛好です。これが喜覚支です。

もし長い間修めても、心の中の喜覚支がついに生じてこないなら、修学がまだ力を得ていないこと、あるいは精進の度がまだ足りないこと、あるいは選んだ法が正しくないこと、あるいは念覚支が成就していないことを示します。法を正しく学べば、ある時期に必ず喜覚支が生じ、内心が喜楽に満ちます。身心がすでに利益を得ているからであり、利益を得ていなければ、喜楽の心は生じません。たとえば自分が一つの物を得て、自分にとってかなり役に立つと感じれば、心の中は喜びます。その物が役に立たない、あるいはあまり役に立たないと感じれば、心の中は喜びません。

第五に、倚覚支です。内心に喜悦が生じたのち、どんな現象が現れるでしょうか。煩悩が圧伏され、五蓋が軽減され、そして内心に軽安の覚受が生じます。これが倚覚支です。この倚は倚り安んじて休むという意味であり、身心ともに安んじて休まることで、内心の軽安を表します。このときに至ると、修めば修めるほど心の中が軽く自在になり、解脱を感じるほどになり、身心がますます弛み、それを保てれば倚覚支の成就を示し、保てなければ倚覚支の退失を示します。

倚覚支は軽安覚支とも呼ばれます。軽安とは、内心がきわめて軽く安らかで自在であり、身体が軽やかで重くないことを指します。身と心は相互に依頼し、相互に依存しており、身体に変化が現れれば心に変化が現れ、心に変化が現れれば身体に変化が現れ、身心は相応しています。心の中が喜楽あるいは軽く自在であれば、身体は軽やかに浮き立ち、身体が軽やかに浮き立てば、心は軽く愉悦です。身体がうまくいかなければ、心境も愉悦で軽やか自在にはなりません。禅定が現れたとき、身体の覚受がきわめて軽やかであれば、心は必ずきわめて快楽です。法を学んできわめて快楽なとき、身体は必ず軽く安らかです。

禅定とは、身体と心がともに定を得ることであり、一つでも欠ければ禅定とは呼べません。身体を離れて定するのでもなく、心を離れて定するのでもなく、両者は相輔相成です。禅定は人に軽安、軽やか、自在の感覚を得させます。いわゆる軽やかとは、色身が軽やかで重くないことであり、同時に心も愉悦で快適であり、心量が大きくなり、軽安の覚受は上界と相応し、人間の本地を離脱する趨勢があり、これが定の徴候です。多くの人はこの状態にまで修めておらず、身体は依然として重く、内心にも喜楽、軽やか、自在、解脱の感覚が生じておらず、修行がまだ力を得ておらず如法でないことを示しています。

軽安の覚受が現れるまで修めると、行住坐臥の状態が従来と異なり、心の中の状態が顔の表情や身体の姿から見て取れます。それゆえ、一人の人に道があるかどうか、どの程度まで修めたか、明心したかどうかは、明眼人が一目見れば分かります。過去の禅師はみなその慧眼を具えており、弟子が参禅してある日まで参り、春風を満面にたたえて歩いてくると、全身から得道したかのような気勢がにじみ出ており、師が一目見れば、弟子が口を開かなくても分かったのです。証道には標識があります。断我見して証果し明心したといっても、身口意が以前とまったく同じで、少しの差もなく、まして以前より劣り煩悩が重くなっているということはあり得ません。明心見性したばかり、断我見したばかりのときの身心の状態は、他人が一目見れば、以前と違うことが分かります。倚覚支にまで修めたときも同様で、身心ともに変化があります。

第六に、定覚支です。倚覚支が成就したのち、禅定が現れます。いわゆる禅定とは、一つには法に対する決定であり、もう一つは身心の寂静であり、身体は安らかで乱り動かず、心は専一に深く細かに思惟して散乱せず、不動の状態の中にあります。いわゆる定とは散乱しないことであり、法に縁して深く入り込み、外界の干渉を受けず、心を法の上に住まわせることです。この二種の定がともに具足してこそ、完全な禅定です。

未到地定が具足するまで修めると、心が比較的沈着で集中しており、法義を思惟するときにはすぐに心を沈めて法義の中に深く入り込め、煩躁不安にならず、文字の表面に浮いて深入りできないこともありません。この状態に至れば禅定が成就しており、脚が組めるかどうかにかかわらず、内心は禅定と相応し、行住坐臥いずれにも定があり、こうして仏法の中に深く入ることができます。これが定覚支です。 

倚覚分のときにはすでに初步の定があり、前の倚覚分が修め出ていなければ、後の禅定は現れ得ません。たとえ無理に長時間坐っても、倚覚分がないため、定を得るのも困難であり、倚覚分があってこそ入定が容易になり、行住坐臥に禅定があれば、身体の状態が定がすでに現れたことを示しています。

それゆえ、喜覚支と倚覚支を修め出したのちにこそ、定覚支があり、定は喜と倚という二つの覚分から引き出されたものであり、その前に精進覚分、択法覚分があり、これら一連の覚支が後の各覚支を引き起こし、一つ比べ一つ深く、前の覚支がなければ後の覚支はありません。もし一人の人が証果したといいながら、これらの現象がどれもなければ、いったい何の果を証したのでしょうか。もし一人の人が明心したといいながら、これら身心上の相貌、覚受、状態がどれもなければ、いったい何の心を明らかにしたのでしょうか。それゆえ、証果したか否か、明心したか否かは、経験者には瞞せません。その身心の状態を見れば、一目で分かり、たとえ一言も口を開かなくても、その顔つき、顔色、神情が、法を得たか否かの心境を示しているのです。道があるか否かは、口を開いて話せばなおさら判断でき、明眼人には瞞せません。

第七に、捨覚支です。禅定が生じたのち、さまざまな心念を降伏してはじめて、心は平等の捨境に住することができ、苦でもなく楽でもなく、喜でもなく悲でもなく、淡々として、貪執も瞋恚もなく、内心は清清浄浄です。捨覚支の捨は捨去するという意味です。もともとどんなものを捨去する必要があったのでしょうか。心の中に喜があり楽があり、貪があり瞋があり、粗重な覚観思惟があり、散乱と波動があり、いずれも捨去して捨受に達する必要があります。二禅以前はまだ覚観と念があり、心の中に喜楽受があって捨去されていませんが、四禅に至ると捨念清浄となり、一つの念頭もなく、さらなる捨であり、捨念清浄と呼ばれます。

心の中に苦受と楽受があるのは散乱であり、心の中に念頭が絶えず、思想と憶念が絶えないのも散乱です。禅定が生じたとき、苦受が捨去され、楽受が捨去され、粗重な覚観が捨去され、散乱な思想が捨去され、内心の過去への追憶が捨去され、心念が澄み、心が清静に下ります。これが捨覚支です。七覚分を最後まで修めると、内心の一切の繁乱と粗重を捨除しなければならず、捨覚支が成就します。

このような状態においてこそ、思惟観行した仏法が心に入り、意識の思惟が深く細かくなり、意根が専心に意識の思惟の過程と結果を考量でき、薫習を受け、受け入れ、智慧を生じさせることができます。内心が絶えず攪乱され、清静になれなければ、仏法の中に深く入れず、薫習を受けられず、智慧の生起もありません。捨覚支が生じたとき、心の中は平静であり、波のない湖水のように波瀾が立たず、仏法がはじめて内心に浸透して心田を潤し、智慧の苗を生じさせることができます。もし内心がつねに喜楽に満ち、定力が不足し、心思が比較的浮躁で、観行が十分でなければ、仏法は内心に深入りできず、証果して智慧を開くことができません。

清浄な心念は捨心であるべきです。仏教を学ぶ人の中には、念仏の境界が比較的良いとき、定の中に仏菩薩の出現を見て、心の中がきわめて歓喜する人がいます。この心境を化解できず、つねに仏菩薩の相を好むと、心が清浄でなく、魔境に入りやすくなります。ある人は修行の中で心の中がつねに悲を生じ、自分のために悲しみ、衆生のために悲しみ、世界がことごとく苦であり、苦くてたまらないと感じます。これは悲魔に住したものであり、心念も清浄ではありません。最後まで修めて、悲と喜という二種の心念をことごとく捨除し、平静で平淡で平穏で平等な心态に住してはじめて、仏法の中に深く入ることができます。あの最も正しい心念の状態に住してはじめて、観行が成就し、ひいて断我見し明心して証悟できるのです。

七覚支は一環が一環を繋ぐものであり、前の環がなければ後の環はなく、前のこれらの道をすべて歩み終えて、はじめて断我見して証果できます。これが証果の前行条件です。それゆえ、これらの経験がどれもなければ、我見を断除できず、どの覚支も生じていなければ、断我見も不可能であり、かつて精進したことがなく、かつて喜楽の心を生じたことがなく、身心がかつて軽安したことがなければ、法に対する認知がまだ深くなく、観行は成就できず、とりわけかつて観行したことがなければ、断我見はなおのこと不可能です。三果四果の人が再び来た者だけは、今世仏法に遇って少し思惟を加え、关键性の一言を聞いて、少し思惟観行を加えるだけで証果でき、一法一法と反復して思惟観行する必要はありません。初めて証果する人は、必ず反復して細心に深く観行し、七覚支をすべて深く修習し、かつすべて修め成就させなければ、我見を断除できません。たとえ三果四果の人が再び来たとしても、仏法に遇ったのち、これらの覚分を速やかに生じさせて、はじめて証果できるのです。

無始劫以来初めて断我見する人にとって、これらの覚分の生起はきわめてきわめて遅いかもしれず、持続時間がきわめて長く、每一覚分がきわめて堅固で安定してはじめて、次の段階に入れます。前世ですでに証果した再来人はこのようである必要はなく、七覚分の生起が一つに一つが連なり、きわめて速く、舎利弗や目犍連のような大阿羅漢はみな一瞬にして完成し、禅定も瞬時に生じ、彼らの観行は一念の間に成就し、頭の中で一閃の念で完成します。彼らは前世ですでに七覚分を完全に具足していたからであり、われわれは今世初めて起修するので、必要な時間はより長くなります。もし七覚分が成就せず、修め出ていないか、あるいは修め出たのちしばらく持続せずに消えてしまったなら、断我見はできず、無理にそう言うなら妄語です。証果した人の身心の外在の表現は、以前と比べて必ず変化があります。初步の解脱の功徳受用を得た以上、身心は必ずいくらか転変するからです。

佛说:或于内法观法而住,又于外法观法而住,又于内外法观法而住。七覚支法を観するとき、内の七覚支法を観することと、外の七覚支法を観すること、および内外の七覚支法を同時に観することに分けられます。内の七覚支法とは内心の奥の比較的隠秘な意根が修める七覚支であり、外の七覚支とは意識が修める七覚支であり、そして内外の七覚支を同時に観行して住します。さらにこれらの法が生じるのを観し、心念を法の上に住まわせるところまで観し、そしてこれらの法が滅するのを観行して住し、同時にこれらの法の生滅を観して住し、最後には心の中に一つの念があり、ことごとく七覚支法の念です。さらにこれらの法の念を捨て、心は一無所有の状態に住し、空の状態に住し、心の中のいかなる一種の念も空にし、心は所依なく、このように住します。これも捨覚支です。每一の観行の後に、心の中の所念所想を捨除し、捨念の中に住しなければならず、最後に捨念をも除してはじめて究竟です。

このように、七覚支法の修行が終わり、これを七覚支法を観して住すると言います。 

佛はこの経の中で七覚支を内の七覚支と外の七覚支に分けています。真に内心の奥に生じる七覚支とは意根の七覚支分を指し、表面に生じる七覚支分とは意識の階層の七覚支分を指します。意識が生じた外の七覚支は、実際にはまだ意根の内の七覚支に薫習されていませんが、真に七覚支を生じさせるには、最も主要なのはやはり意根の内の七覚支です。

念覚支は意識の外の念覚支と意根の内の念覚支に分けられます。意識が外の念覚支を生じても、もし意根が意識に薫習されることを望まなければ、意根はやはり外へ四方に攀縁して散乱し、意識の念じるところに縁することを望みません。意根に念覚支がなく、意識の念じている法義を念じなければ、意識の念覚支は作用せず、散壊してしまいます。意根に薫習されていないため、意根の内の念覚支が成就せず、その後続の他の覚知はすべて現れ得ず、証果して断我見することもできません。念覚支が真に成就したとき、意識の外の念覚支があるだけでなく、意根の内の念覚支の成就も必要であり、この二つはどちらもきわめて重要です。意根の念覚支が現れてこそ、後の覚支の出現を促すことができます。

意根が念念に修める法を離れなければ、毎日持続的に法義の上で専注に思惟でき、たとえ食事や睡眠のときでも法を念じ、法義の思惟を離れません。このような念覚支こそ究竟のものであり、それゆえ内覚支と外覚支はどちらも欠かせません。またたとえば、意根が四聖諦法を修したいと望み、祂が念念に四聖諦法に縁し、四聖諦法をはっきりさせようとすれば、意識の心は意根に配合して、行住坐臥を問わず、念念がことごとく四聖諦の法義でなければなりません。意根の心念があまりにも堅固であるため、意識を牽引して必ず意根に随順させ、この堅固な心念が意根の内の念覚支です。

単に意識が具える念覚支だけでは、意根が処処に攀縁する缘故により断たれます。それゆえ、初步の成就は意識の上に落ちますが、意識の念覚支が成功裏に意根を薫習すれば、意根の内の念覚支が成就でき、それゆえ真の成就はやはり意根の上に落ちます。上記より、一切の法は意根に薫習されてはじめて成就でき、意根に薫習されていなければ、すべて意識の階層の修学にすぎず、法義を証得できません。

択法覚支は意識の外の択法覚支と、意根の内の択法覚支に分けられます。外の択法覚支が先に現れ成就してはじめて意根を薫習でき、内の択法覚支がはじめて現れ成就します。意識の外の択法覚支は間断的であり、決定的な作用を果たさず、真に修学すべき法を選ぶときにはなお優柔不断です。一方、意根の択法覚支が成就すれば、自動的かつ自覚的に正しい仏法を選んで修学でき、岔路や偏路を歩むことはありません。

意根の択法覚支とは択択性であり、意根の思心所の作用によるものです。意根の思心所はきわめて伶俐で迅速です。たとえば突発的な重大事故が発生したとき、意識の思惟択択がまだ生じていないとき、意根の択択性が直接起用され、あるいは閃躲し、あるいはその他の行為をして危険を避け、一連の行為が終わってから意識が反応します。もしこのときが岔路口でどの道を歩むかを選択しているときなら、意識がまだ考える間もないうちに、意根は祂の思心所に依って択択してしまいます。

またたとえば、同一時間内に処理しなければならない緊急な事柄が三四件発生し、意識が乱れ糸のようで択択するすべがないときには、意根の思心所に頼って択択し行動を取らなければなりません。意識は意根に配合して造作することしかできず、意識には考慮し択択するすべがありません。しかし、意根の択択性にもやはり意識による不断の薫習が必要であり、多数の法の上で正しい択択性をもち得ます。それゆえ、意根が択法覚支を具えてこそ、われわれは精進に学法でき、もし意根がまだ択法覚支を具えておらず、意識だけが択法覚支を具えていても、やはりだめなのです。

精進覚支は意識の外の精進覚支と、意根の内の精進覚支に分けられます。一切の法の修学において、もし意識だけが精進に修学したいと望み、内心の奥の意根は精進したくないなら、精進に修習できず、この法は修め成就しません。たとえばある人は、表面上はとても用功に修行しているように見え、多くの書を読み、多くの仏法を学んでも、意根が興味を示さず、深く考えもせず、学んだ法を知らず解らなければ、意識の修習は馬の目を通して花を見る、蜻蛉が水を点すようであり、意根は心猿意馬で、結果何一つはっきり学べません。またたとえば、学生が先生の授業を聞いていて、真面目に聞かなければ試験に落ちると知っていても、表面上は真面目に授業を聞いているようでありながら、内心では思いが止められずあれこれ考え、本を読むときは一目十行で無理に暗記しても覚えられず、一コマの授業が終わって学生に何を学んだか、どんな心得があるかと尋ねても、学生は何も答えられません。学ぶのが嫌いなある小学生はまさにこのようで、机のそばに座って専心に授業を聞いているように見えても、意根は魂が守るべき家を離れ、思想がどこへ飛んで行ったか分からず、先生の声は左の耳から入り、右の耳から直接出て行き、少しも意根の中に留まらず、それでは学んだことになりません。

意識の心の表面の精進は、意根に深入りしなければ外精進、偽精進です。それゆえ、いかなる法でも意根の内精進があってはじめて成就でき、意識の外精進は浮草のように浮き沈み定まりません。意根の内精進が成就しさえすれば、たとえ参禅のときに意識が他人と話をしたり茶を飲んだり、あるいはその他の事をしても、意根の内精進には影響せず、意根は自然に心心念念参禅を絶やしません。参禅のときあるいは思量のとき、意根は意識と同期することもでき、意識と同期しないこともできますが、意根と意識が同期してともに参禅するほうが、意識と意根がそれぞれ単独に参禅するよりも深く入ります。静坐参禅に行走参禅を配合し、意根と意識が同時に一つの法の上に専注すれば、思惟はさらに明瞭になり、このときは全心全意であり、意識は他の法塵に分神する必要がなく、意根は意識からのより多くの情報を受け取る必要がありません。活動の中の意根と意識は分神が多く、専注が足りないときには、思惟は静中の思惟より浅くなります。要するに、意識と意根が同期して精進してはじめて、真精進なのです。

喜覚支は意識の外の喜覚支と、意根の内の喜覚支に分けられます。まず意識が法義に対して喜楽の心、愛楽の心を生じ、のちに意根に薫習され、意根にも法義に対して喜楽の心、愛楽の心を生じさせます。意識の喜覚支は比較的浅薄で、瞬時にして消え、長くなく堅固でなく、身心の変化を引き起こすことはありません。一方、意根が生じた喜楽の心は、比較的深沉で堅固であり、全身心を喜楽に満たさせ、こうしてはじめて後の倚覚支があり、身心ともに軽安となります。意識の喜楽と意根の喜楽には区別があり、意根が喜楽のときは喜笑顔開となり、目の中と顔の上の神情がことごとく意根の喜楽を表し、意識の喜楽にはある種の敷衍と作為の意味があり、真誠ではありません。

倚覚支は意識の外の覚支と、意根の内の覚支に分けられます。意識が粗重な煩悩と蓋障を降伏し、軽安と清凉を生じ、さらに意根を薫習すれば、意根も粗重な煩悩と蓋障を降伏し、身心ともに軽安で快適になり、そののち禅定を発起しなければなりません。

定覚支は意識の外の定覚支と、意根の内の定覚支に分けられます。意識が禅定を生じたのち、意根を牽引して定せざるを得なくさせると、こうして内外の定覚支が生じます。もし意識の定覚支だけで、意根の定覚支がなければ、意識の定覚支は長くなく堅固でなく、必ず散滅してしまいます。意根に定覚支があれば、心心念念が定の中にあり、散乱せず昏沈せず、思惟は細密で、真実の智慧を生じさせることができます。定覚支には二つあり、一つは修める法の上に定して動揺しないことであり、もう一つは禅定を発起し、定の中に深く入り、専精に思惟し、離れず棄てないことです。定覚支が比較的堅固なまで保持できれば、捨覚支を修め出すことができます。

捨覚支は意識の外の捨覚支と、意根の内の捨覚支に分けられます。禅定が生じたのち、定水の滋潤のもとで、意識と意根の心念が次第に清浄澄明に下り、雑念が除去され、心の中に留められた法の念も次第に軽減され、最後には心の中に念あるところはすべて捨去し、清清浄浄、掛碍なくします。最初に意識が心念と覚観を捨去し、続いて意根も心念と各種の知見を捨去し、喜まず厭わず、平和で中庸です。真の捨念の成就は意根による成就であり、意根は無念を望めば無念となり、意根が執著しているとき、その心念を意識は制御できないかもしれず、しかも意根に配合して念を生じなければなりません。意根が喜楽の心、憎恨の心など一切の心行を捨ててこそ、正法に深く入り、参究に専心できます。意根が捨念清浄のとき、六識は波平らかに浪静まります。

最後には、意識と意根の心心念念がことごとく七覚支の法であり、さらに心の中の七覚支の法を排除し、いかなる一法にも住せなければ、こうして捨念清浄となります。このような修行方法に依り、心の中に一法も住せず、意根が如来蔵のように一法も執著せず、空空として、最後には究竟に成仏できます。修行とは契出契の方法を用いることであり、たとえば手に刺があって、針で刺を挑ぎ除き、刺を挑ぎ除いたのちは針はもう不要となり、針をさらに捨てるのです。仏法を用いて世俗の法を剔除し、深法を用いて浅法を剔除し、さらに上の法を用いて深法を剔除し、最後に一切の法を捨てて、成就するのです。

仏教を学び修行するとは、仏法を用いて衆生の無明を破ることであり、より深い法を用いてより深い無明を破り、無明がことごとく破除されたなら、もはや仏法を修める必要はなく、仏法は衆生を度するためにしか用いられません。意識の外の捨覚支が心の中の法を捨除し、意根の内の捨覚支も心の中の法を捨てたのちは、心の中は空空とし、このときいかなる念もなく、捨念清浄となり、甚深の三昧に入ります。定が成就すれば智慧も成就でき、定の中で観行すれば法を証でき、後続の修行では相続して如幻観、陽炎観、如夢観、鏡像観など、すべての甚深三昧の境界を証得しなければなりません。

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