多くの人は賞賛や批判に耐えられないが、その原因を究めれば、やはり我心(がしん)のために慢心が現れるのである。三果・四果以前は誰もが慢心を持っており、ただ因縁が具足しないときには、慢心は随眠として隠れているだけである。因縁が現前する機会が来ると、慢心は現行として表に出てくる。ほとんど誰もがこの段階を経験するものであり、ただ時間の長短や深浅が異なるだけである。
最も卑しい人は、ひとたび自分が得意の立場に立つと、往々にして最も慢心の強い人になる。なぜなら、卑しさや自己卑下もまた慢心・我心の一つの現れ方であり、我心がなければ、自分を卑しく思うこともないからである。したがって、どれほど自分を卑下するかによって、どれほど慢心が強いかが分かるのである。
ほとんどすべての慢は、世俗法の面に現れる。たとえば、富貴で金が多いことを慢とする人もいれば、地位があることを慢とする人もいれば、権勢があることを慢とする人もいれば、容貌を慢とする人もいれば、如意な家族や親族がいることを慢とする人もいれば、その経験・阅历を慢とする人もいれば、何らかの特技があることを慢とする人もいれば、自分の聡明さと才知を慢とする人もいる。多くの人は色身のゆえに慢じ、大多数の人は頭脳の知恵を慢とする。これらの慢の種類はきわめて多く、いずれも内心に我と我所があり、身見・我見が重いことによって生じるものである。
慢心は最も道を障げるものであり、慢心は最も魔に入りやすい。ある人、顔一面のそばかすを自分では見えないのに、一日中他人の顔をじっとにらみ、毎日他人を検査する。これは内心に自と他があることの原因によるものである。
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