五別境心所法である欲、勝解、念、定、慧は、出世間法の成就の鍵であるだけでなく、世間法の成就の鍵でもあります。一切法の生・住・異・滅はすべて五別境心所法によって引き起こされるのであり、五別境心所法がなければ、一切法も成就することができません。たとえば欲心所では、衆生は求めるもの、願うものさえあれば、それが出世間法のことであれ、世間法のことであれ、いずれも一種の欲望であり、これらの欲望は八つの識の心の作意・触・受・想・思を引き起こします。思心所が現れた後、欲するところ、願うところは生起し、増長し、滅亡します。そのうち、生じるのが速く、滅するのも速く、環境の影響を受けやすく熏染されやすいのは、意識の欲望です。一方、深層の欲望、希求、希冀、願望など、意識では制御できず、把握できない、根深いものは、意根の欲望です。五識にもそれぞれの欲求があり、多く触れ、多く作意したいという五塵境界への欲は、貪求、希求、求取とも呼ばれますが、これは五識が現在の五塵を了別した後の心行にすぎず、現在の五塵と相対していないときには欲はなく、他の五塵境を了別しようとは思いません。その心思はきわめて単純です。
たとえば、極楽世界に往生したいというのは一種の欲望であり、意識心の欲もあれば、意根の欲もあります。意根の欲望は深信切願と呼ばれます。意根の深信切願がなく、ただ意識が往生したいと考えるだけであれば、真心がなく、十方の諸仏菩薩が迎えに来る感応もなく、自分の如来蔵の加持と協力を感応することもできず、したがって往生できません。往生するか否かは意根が主宰するからであり、意根が往生を欲せず、娑婆を貪り恋すれば、極楽世界に往生することはできません。
成仏したい、参禅したいというのには、意識心の欲もあれば、意根の欲もあります。意根の欲望がなければ、六識はそもそも精進することができず、参禅、学法、成仏といったことはいずれも成就できません。世俗法において昇進や富の獲得を望んだり、ある事業の成就を望んだりするのにも、意識の欲望と意根の欲望の両方があります。意根に欲がなく、やりたくないことがあれば、意識がどれほど欲しようと、どれほど造作しようと、どれほど希求しようと、すべて無駄です。意識は主宰することができず、必ず意根が主宰しなければならないからです。
また、たとえば勝解心所法には、意識の勝解、意根の勝解、そして五識の勝解もあります。通常の場合、意根は六塵境界を了別する智慧が不足しているため、六塵境界を勝解することが難しく、六識に頼って六塵の具体的な状況を了別しなければなりません。六識が了別した後、その状況を意根に伝えます。もし意根が六識の伝えた情報を勝解できなければ、速やかに抉択することができず、正しく如理な抉択ができず、それゆえ六識はしばしば過ちを犯すことになります。もし意根が六識の了別情報を勝解すれば、正確で、如理で、適時で、迅速かつ的確な抉択を下すことができます。意根が勝解できない事柄については、正しい抉択ができず、意識に随順して抉択することもできません。六塵境界を理解できず勝解できないからです。もし如来蔵が了別した業種を勝解できなければ、先知先覚がなく、事前に準備して意識を警覚することもありません。
五識もまた、それぞれが了別した境界に対して勝解力を持ってこそ、認知の智慧が生じ、抉択力が生じます。五識が勝解できなければ、境界に対して抉択することができず、五塵を執取できず、五塵に対して造作することができません。観行により断我見し、参禅するとき、もし意根が五陰無我の理を勝解できず、般若の理を勝解できず、如来蔵の法を勝解できなければ、断我見もできず、明心見性もできず、煩悩を断除して生死を解脱することもできず、三界を出離することもできず、まして転識成智によって仏道を成就することはできません。
また、たとえば念心所では、誰の心の中にも何らかの法が念われており、世俗法を念ずる者もあれば、仏法を念ずる者もいます。その中には意識の念、意根の念、そして五識の念があり、意根の念が主です。意根が一念すれば万法が現れ、一髪を引いて千鈞を動かすのと同じであり、意根が動念しなければ、万法は寂然として生じません。意識の念には、境界の影響を受けて生じたものもあれば、さらに意根の指図・牽引を受けて生じたものもあり、意根の念に支配されています。五識の念は意根の念によって引き起こされ、同様に意根の念に支配されています。意識の念と五識の念は生滅変異が非常に速く、また浅薄です。一方、意根の念は往々にして深沈で長く、念念として留まらず、念念として変わらないことがあります。たとえばある人を想い、ある事やある法を念じている場合は、比較的頑固であることもあります。
また、たとえば定心所では、仏法において参禅、念仏、座禅を組むことに定まることもできれば、世俗法において定まり、科学研究やあるプロジェクトの難問解決などに取り組むこともできます。ここでの定には意識の定、意根の定、そして五識の定があります。意識に定があれば、細やかに思惟・観行し、綿密に分析・研究・推理することができますが、意識の定もまた意根の定の結果であり、意根が執着せず攀縁せず散乱しない結果であり、また意根の牽制と調節の結果でもあります。
五識の定も同様に、意根の牽制と調節の結果です。意根が五塵境界において定まり、了別をはっきりさせようとしてこそ、五識は五塵境界において定まり、五塵境界をはっきりと了別することができるのです。もし意根が仏法において定まらず、科学研究や難問解決において定まらなければ、意識は仏法や科学研究に専心することができず、成果を上げることもできません。したがって、意根の定は根本の定であり、きわめて重要です。意根の心が定まってこそ、その思量は綿密で細やかかつ深くなり、事理の本質と真相を探究し出すことができ、証悟して智慧を得ることができ、さらには転識成智まで可能となるのです。
別境の中の慧には、意識の慧もあれば、意根の慧もあり、五識にも慧があります。七つの識の慧には一定の差があり、意識の慧は生じやすいのですが、真の慧もまた相当の禅定に依拠してこそ得られます。五識の慧は比較的単一で、五塵境界をはっきりと了別し、如実に認知する機能を持てるだけであり、それだけのことですが、これもまた自身の定に依拠してこそ生じます。一方、意根の慧は、仏法において智慧を生じさせることもできれば、世俗法において智慧を生じさせることもできます。慧を深く透徹したものにしたいなら、甚深の禅定に依拠しなければならず、さもなければ甚深の智慧を持つこともできず、如実智を生じさせることもできず、まして転識成智することはできません。
したがって、五別境心所法は、六・七識がすべて持っており、五識にもあり、それは世間・出世間の一切法を成就する鍵であり、きわめて重要な心所法なのです。七つの識が五別境心所法を持たなければ、多くの法は現起することができず、道業を成就できないだけでなく、世俗法も成就することができません。
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