衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2025年12月17日    水曜日     第1開示 合計4552開示

念仏と念仏三昧と念仏号の違い

念仏と念仏定を修めることは、二つの方向、二つの心の行い、二つの念い、二つの目標であり、同じことではない。念仏とは純粋に仏を念じ思い、心に仏を宿し、仏陀の加護と加持を得たいと願い、他の考えを持たないことである。そうすることで知らず知らずのうちに念仏三昧が現れ、客観的に念仏定が生じる。一方、主観的に念仏定を修めることは、念仏を通じて禅定を修め、禅定を修めることを目標とし、念仏と仏を修定の方法と手段とするものであり、一種の利用の意味合いがある。念仏に他の心思が混ざり、純粋な念仏ではなく、往生もできず、念仏三昧を修めるのも難しい。ただひたすらに仏を念じ、仏を思い、仏を観想し、誠心誠意仏に帰依し、仏を慕い求めること、まるで子が母を思うようにすれば、より早く念仏三昧を得られる。この三昧を得て同時に参禅し、不生不滅の自性仏を参究すれば、真の念仏三昧を得て、明心し自性仏を証得できる。

ある人々の念仏は、心の中で念仏定を修めようと思い、仏を思うのではなく、仏は重要でなく、定が重要だというものである。このような場合、心中に仏もいないのに、どうして仏力の加持を得て念仏三昧を得られるだろうか。修定の心で念仏するのは、禅定を念じ、利益を念じるのであって、仏を念じるのではない。仏を修定の道具と見なし、心中に仏への崇敬と敬愛がどこにあるだろうか。利益至上主義で、念仏にどうして効果があろうか。心中に仏もなく、全て自分自身であり、個人の利益ばかりを考えているのに、念仏に効果があろうか。修定を目的とし、心中に仏もなく、定が仏よりも重要で、ただ定だけを思い、仏を思わないのなら、念仏に効果があろうか。仏を理解せず、仏の功徳を知らず、仏の清浄なる大願を知らず、仏の大慈悲心を知らず、仏の一切の清浄なる大願が自分に何の感動も与えず、仏に対して崇拝、尊敬、敬仰、敬愛、崇信の心もないのに、念仏に効果があろうか。

念仏する時、心の中が全て自分自身であるなら、それは自分の利益を念じるのであって、仏を念じるのではない。仏陀の事跡を知らず、感動もせず、励まされもせず、仏陀に近づかず、仏に帰依しないのなら、どうして仏陀の加護を得られようか。心中に仏もいない者が、さらに仏の加持を願うなど、どうして加持を得られようか。もし仏すら理解せず、親しくしようとも思わないなら、どうして念仏できようか。いったい何を念仏するというのか。皆さん、どうすれば自ら仏を思い念じ、仏陀を敬重し仰慕できるか考えてみてほしい。仏陀の修行の事跡や衆生を度する大願、そして慈悲喜捨の心の広さを観察し理解することは、仏陀への憶念を強める助けとなる。仏陀のこれらの功徳を知らなければ、うまく念仏できない。

また、念仏とは念仏の名号を唱えることでもない。念仏と念仏の名号を唱えることは二つの別のことであり、同じことではない。念仏とは仏陀の本尊を慕い念じることで、心が真摯であれば功徳は大きい。一方、念仏の名号を唱えることは仏陀の名号を唱えることで、形式に流れ、心では仏を思わず、仏に帰依も崇敬もしない。形式だけ仏の名号を口にし、心では念仏の結果や利益、さらには世俗の利益さえ考えているなら、念仏の功徳は非常に小さい。

念仏の法門を修める者は、自分が念仏する発心が何であるか、自分が修行する目標が何であるか、自分が結局何を望んでいるのかをはっきりさせ、それから自らの修行を計画し始めなければならない。盲目的に形式だけの偽りの修行をしてはならない。

——生如法師の開示
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念仏を意根に習慣化させれば、途切れずに念仏を唱え続けられる

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金剛経講義・一相無相分第九

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