衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2025年08月07日    木曜日     第1開示 合計4443開示

生への意欲が欠如していたために病死した場合、それは自殺と言えるだろうか?

自殺を構成する要件は、第一に死を求める心、第二に具体的な自殺行為である。この行為は自ら行う場合もあれば、他人に代行させる場合もある。あるいは不作為、つまり自ら救われず、他人の救済も拒むことによって引き起こされる場合もある。

生存意志を持たない者が自殺手段を取らず、故意に死を望んだわけでもなく、単に意気消沈した結果、生命が早く終わっただけの場合、自殺の意図や行為は存在しない。したがって自殺には該当せず、ましてや罪はない。生きることを望まず、生への希望を持たない者は早く死ぬが、自殺には分類されない。

重病を患った者が病苦に耐えられず、ひたすら死を願い、最終的に病死した場合、これは自殺に当たるだろうか。もし治療を放棄し、自ら生き続ける機会を断ったならば自殺に該当する。故意に絶食した場合も自殺である。患者が病死前にナースコールを押して医師の救命処置を求められたにもかかわらず、最終的に呼び出しを選択せずに病死した場合、自殺に当たるだろうか。このような故意の自己救命拒否行為は、自ら生存の機会を放棄して死を招いたものであり、自殺に該当する。ただし罪にはならない。殺人も自殺も、主観的な意思だけでなく、それを可能にする方法(方便法)が必要である。殺人は六縁が具足して初めて殺人罪が成立する。自己救命拒否と見殺しは同じ理屈であり、見殺しは法に触れず、世俗の道徳観念に反するだけである。自己救命拒否はさらに罪ではない。

仏在世の比丘たちが初果から四果を証得した後、自らの生命への希求がなくなり、五蘊世間への興味を完全に失ったため、自殺行動を取ったり、他人に死の手助けを求めたりした事例がある。これらは自殺行為に該当するが、いずれも罪はない。なぜなら自己の生命の帰趨は自己が決定するものであり、他人の利益を損なわない限り罪にはならないからである。ただし菩薩たちに自殺は絶対にない。菩薩の心にはより高い追求があり、仏法と衆生を思い、大願力を持っているため、生命と時間を非常に大切にするからである。

——生如法師の開示
前へ前へ

呼吸念仏法による音声の流れを観行すること

次へ 次へ

強制堕胎の罪は誰のものか?

ページトップへ戻る