衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2022年09月12日    月曜日     第2 回の開示 合計3676回の開示

現観四智(世第一法・勝解作意)を具える功徳

瑜伽師地論第三十四巻

原文:若し行境界に於いて、失念の故に、猛利なる諸煩悩纏を起こすとも、暫く作意するに速やかに除遣し、又能く畢竟して悪趣に堕せず、終に故思って所学に違越せず、乃至傍生も亦命を害せず、終に退転して所学を棄捨せず、復五無間業を造ること能わず、苦楽は自ら作るに非ず、他作に非ず、自他作に非ず、非非自他無因より生ずることを定知す。

釈:現観四智を有する行者は、若し境界に在って、暫時の失念により、猛烈なる諸煩悩纏を生ずるも、暫く作意すれば速やかに纏縛を除き、畢竟して悪道に堕せず、永劫に故意に所学に背く法を思惟せず、畜生の命すら害せず、永劫に退転して所学を捨てず、五無間悪業を造作せず、苦楽が自己の作に非ず、他法の作に非ず、自他共同の作に非ず、自他和合の無因から生じたものでもないことを確知する。

原文:終に外道を師と請うことを求めず、亦彼らに福田の想いを起こさず、他の沙門婆羅門等に於いて、終に口及び顔面を観瞻せず、唯自ら法を見て法を得、法を知り法を得、法の源底を証し、疑惑を越度し、他縁に由らず、大師の教に於いて、他に引かるることなく、諸法の中に於いて無畏を得、終に妄りに世の瑞吉祥を計って清浄と為さず、終に更に第八有生を受けることなく、四種の証浄を具足成就す。是の如き行者は、乃至世第一法に至る以前、勝解作意と名づく。

釈:終に外道を師として帰依せず、外道を福田と見做さず、他の沙門・婆羅門に対し、永劫にその顔色を窺い、言辞を重んじて法を得ることをせず、ただ独り法を現見し証得する。法の根源を証得し、全ての疑惑を解消するのは、外的因縁によるものではなく、善知識の教導によるものであり、他処から引き出されたものではない。行者は諸法に於いて畏れなく、虚妄に世俗の瑞兆や吉祥を清浄と執着せず、第八度目の三界受生を終え、四種の法眼浄を成就する。かかる行者は、世第一法に至るまでの修業を勝解作意と称する。

行者が四智現観を得た後、四加行を修し、第四加行たる世第一法以前の観行は全て勝解作意と呼ばれる。現量による実証以前の思惟参究は、法に対する勝解と領解に属し、勝解を経て初めて現量観察による実証が可能となる。実証は初果位以上に属し、勝解は初果向または四加行の世第一法位に位置する。四加行を経て初めて見道を実証する。故に自らの智慧が現量観察智か、勝解か、推測分析かを如実に見極め、修行の次第を正しく計画すべきである。

現観四智を具える行者は、決して他処から法を得ず、他人の説を究竟の帰依処とせず、自らの現量観察によって実証する。見法得法は自力の参究観行によらねばならず、他人の指摘は現量観察に代わり得ない。疑惑は自らの観行によって解決され、他者の言葉は内心の疑いを解消せしめず、自証でないからである。修行の成果は自修自得であり、他から得たものは自己のものとならず、見道の智慧も得られない。瑜伽師地論を指針とし、法理を明らかにする時、誰が不服であろうとも、弥勒菩薩に尋ねて論ずるほかはない。

——生如法師の開示
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