六根が六境に触れると、第八識が六識を生じ、その後六識が六境を了別する。まず六根があり、次に六境が生じ、最後に六識が現れる。つまり六根が六境に対した時、直ちに六境を認識するわけではなく、時間差が存在する。例えば眼が色境に対した際、最初は何であるか分からず、しばらく見て初めて認識する。
この過程において眼識の種子は次々と流れ出る。最初の眼識の種子が色境に対し、消滅して第八識に戻る段階では、まだ明確に認識できない。二つ目の眼識の種子が再び色境に対し、消滅して第八識に戻っても、依然として明確ではない。三つ目の眼識の種子が色境に対し、消滅して第八識に戻る際に、わずかに認識が生じる。四つ目の眼識の種子が色境に対し、消滅して如来蔵に戻ると、色境が何であるかを認識し、我々はこの色を分別するのである。視力に問題がある者であれば、認識に要する時間はさらに長くなることもある。
眼が色を見る時、単独で眼根と眼識が作用するのではなく、同時に意根と意識も作用している。眼根が色境に触れると、意根は同時に色境上の法境に触れ、第八識がそれぞれ眼識と意識を生起させ、共同で色境を分別する。眼識は色境の粗色(顕色:青黄赤白の色彩・明暗・虚空の朝霧など)を分別し、意識は細色(表色・無表色・形色など)を分別する。眼識単独では分別できず、必ず意識心と同時に分別して初めて、どの色境であるかを認識できる。
したがって眼が色を見る時には、眼識・意識・意根の三識が参加し、第八識如来蔵の参加も必須である。各識はそれぞれ固有の作用を持ち、相互に代替できない。よって我々が何事かを行う時、八つの識心が共同で作用しており、一つの識心ではない。つまり「一つの心のみで行動している」とは言えないのである。例えば食事の際、眼識は飯やその他の物を見、耳識は食事の音やその他の音を聞き、鼻識は飯の香りやその他の香りを嗅ぎ、舌識は飯の味を味わい、身識は飢え・飽き・渇き・寒さ・熱さなどを感じる。意識はこれら一切を同時に分別し、五境すべてに関与する。
意根は随時随所で次の行動(続けて食べるか、何を食べるか、どれだけ食べるか、その他諸々の対応)を指揮する。最後の第八識については言及を控える。もし何事を行う際にも各識心を識別できるならば、心は極めて微細となり、各心が如何に和合して作用するかを理解し、智慧が生起する。時を経れば第八識を把握し、その働きを知るに至る。これが即ち明心である。
0
+1