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日常法話

2018年03月20日    火曜日     第4開示 合計234開示

各心識の和合と作用の仕組み

六根が六塵に触れると、第八識が六識を生じ、その後六識が六塵を了別する。先に六根があり、次に六塵があり、最後に六識が生じる。つまり、六根が六塵に対しても、すぐに六塵を知るわけではなく、間に時間差がある。例えば、目が色塵に対しても、最初は何であるか分からず、しばらく見てから初めて何であるかを知るのである。

この過程において、眼識の種子は一つ一つ流れ出る。最初の眼識の種子が色に対し、滅して第八識に戻り、何であるかはっきり見えない。二つ目の眼識の種子が再び色に対し、滅して第八識に戻り、まだ何であるかはっきり見えない。三つ目の眼識の種子が色に対し、滅して第八識に戻り、少し見えてくる。四つ目の眼識の種子が色に対し、滅して如来蔵に戻り、何の色塵であるかはっきり見え、我々はこの色を分別するのである。もし視力に問題がある人なら、見る時間がもう少し長くなるかもしれない。

目が色を見る時、単独で眼根と眼識だけが作用しているのではなく、同時に意根と意識も作用している。眼根が色塵に触れると、意根も同時に色塵上の法塵に触れ、第八識がそれぞれ眼識と意識を生じて、共同で色塵を分別する。眼識は色塵の粗色、つまり顕色(青黄赤白の色彩、明暗、虚空の中の朝靄など)を分別し、意識は細色、表色、無表色、形色などを分別する。眼識単独では分別できず、必ず意識心と同時に分別して初めて、何の色塵であるかを知ることができる。

では、目が色を見る時には眼識・意識・意根という三つの識が参加し、第八識如来蔵も必ず参加しており、それぞれが固有の作用を持ち、互いに代替できない。したがって、我々が何事かを行う時には八つの識心が共同で作用しており、一つの識心ではなく、「私にはただ一つの心だけが事を行っている」と言うことはできない。例えば、食事をする時、眼識は飯やその他のものを見ており、耳識は食事の音やその他の音を聞いており、鼻識は飯の香りやその他の香りを嗅ぎ、舌識は飯の味を味わい、身識は空腹・満腹・喉の渇き・寒さ・熱さなどを感じており、意識は同時にこれら一切を分別し、五塵のすべてに関与している。

意根は常に次に何をするか、まだ食べるかどうか、何を食べるか、どれだけ食べるか、その他の事柄にどう対応するかなどを指揮している。最後の第八識については、言及しない。もし何事かを行う度に、それぞれの識心を見出すことができれば、心は非常に微細になり、それぞれの心がどのように和合して作用しているかを知り、智慧が生じる。時が経てば第八識を見出し、その運転を知ることができ、すなわち明心となるのである。

——生如法師の開示
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