衆生が無始劫より以来に造り行なってきた業行は、無数のコンピューターでも計算しきれず、衆生の無量劫にわたる業の種子がもしフォーマット化できるならば、過去の業は清算されたことになります。しかしこれらの業が報いを受けずに終わったり、懺悔を経ず、修行によって徹底的に清浄に至らなければ、業は尽きることはありません。虚空に形があれば虚空も破裂するほど、あまりに多くの業を造ってきたからです。それらの業はすべて衆生各自の因果業報によるものです。
我々が知りえないすべての事柄を、如来蔵は記録しています。因果が絡み合う複雑な事象も如来蔵は悉く知り、因縁が具わる時には全てをありのまま公正に顕現させます。表面的に不公平に見える事象も、背後にある因果はあまりに複雑であり、如来蔵が正確に計算し因果応報を如実に示します。よって如来蔵が存在する限り、この世に不公平なことは存在せず、全てが平等で公正です。善悪を問わず、行った行為は決して無駄になりません。
如来蔵はあまりに不可思議です。如来蔵の法を学べば、人間界や天上界を含む三界の道理を深く理解し、無明が減少していきます。業行に対して意根が執着すればするほど、第八識に刻まれる業は深くなります。故に故意に造った業と無心の業とでは、受ける果報が異なります。善行を行う際には善果を期待せずとも、第八識が相応の善果をもたらします。悪事を働く時、逃れられると思ってはならず、如来蔵は決して見過ごしません。身口意を善く護り、善は小さいからと行わず、悪は小さいからと犯してはならないのです。
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