十二因縁法:無明が縁となって行が生じ、行が縁となって識が生じ、識が縁となって名色が生じ、名色が縁となって六入が生じ、六入が縁となって触が生じ、触が縁となって受が生じ、受が縁となって愛が生じ、愛が縁となって取が生じ、取が縁となって有が生じ、有が縁となって生が生じ、生が縁となって老病死憂悲苦悩が生ずる。衆生は無明を有するが故に、日々身行が絶えず、口行が絶えず、意行が絶えず、自らの行為の造作を止滅させようとしない。その根本を究めれば、心の奥底にある無明によるものである。阿羅漢や辟支仏は一念の無明を断じたが故に、万法が虚妄であり、自我の五陰が真実でないことを知り、それ故に世間のいかなる事をも造作することを望まず、身口意の行が無意味であると覚り、心が空と相応し、空・無相・無願の三昧を発起する。
彼らの身口意の行が減少し、内心が寂止するに従い、六識の現起は稀薄になり、分別も少なくなる。意根が自我への執着を断てば、三界の生死の種子が断たれ、未来世に三界に出生せず、かくして三界の生死輪廻を出離し、生を了し死を脱し、生死の苦悩から解脱する。一方、衆生は無明が絶えないため、五陰を実有と見なし、外界の六塵境界を実有と認識し、絶えず六塵万法に貪執し、身口意の行を絶えず造作する。身口意の行が絶えず造作されるが故に、六識は絶えず現起し、五根と意根と協働して造作し、識別了別の作用を起こす。かくして六識の心は停歇せず、心は寂止を得ず、造作された身口意行の種子は絶えず如来蔵に蓄積され、未来世の受生の因縁条件を創造する。
衆生の六識が絶えず現行し、種子が絶えないため、意根がこれらの種子に攀縁し、自我の五陰への執着が絶えない。中有において、意根が如来蔵を引き連れて受胎し、かくして名色が生じ、次世の五陰が現れ、老病死苦の輪廻が再び始まる。名色という受精卵が存在する故に、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根が生じ、元来存在する意根と合わせて六入が具足し、六塵を受容する器官が整備され、将来六塵と接触できるようになる。
六入という受容器が存在する故に、必然的に六塵と接触し、触が生じる。六入はこの作用を果たす。六入が六塵に触れると、如来蔵は六識を生じて六塵法を了別し、了別後に知が生じ、知れば内心に感受が生じ、苦・楽・不苦不楽を感受する。内心に感受がある故に、六識はこれらの感受に貪着し、六塵境界を愛好し、貪愛が絶えず現起する。貪愛が存在する故に、意根は感受を継続せんがため、絶えず五陰自我を執取し、六塵境界を執取し、五陰の現行活動が継続することを望み、六塵が永遠に存在することを願う。
意根が自我を執取し、六塵境界を執取する故に、六塵は絶えず現起し、三界の生存条件が具足し、三界の有が断絶しない。三界の生存条件が具足し、三界の有が絶えない故に、衆生は三界に絶えず出生し、五陰が絶えず生じ、生命活動が継続する。かくして老病死という無量の憂悲苦悩、無量の大苦が集積し、衆生は無量の憂悲苦悩の中で生死輪廻を繰り返す。
その根源は、衆生の無明にあり、三界万法への貪愛が絶えず、五陰への貪愛が絶えないことによる。貪愛を断じれば、意根の執取が断たれ、意根が執取しなければ、五陰の種子は具足せず、三界の生存条件が具足しない。かくして五陰は再び生じることなく、老病死の憂悲苦悩もなくなり、衆生は生死の苦から解脱する。
意根が貪愛と執着を滅却した故に、如来蔵は貪愛の種子を保存せず、身口意行の種子を蓄積せず、一念の無明の種子を保存しない。如来蔵は七つの識の無明を生じず、無明が断たれれば身口意行が断たれ、身口意行が断たれれば六識が断たれ、六識が断たれれば名色が断たれ、名色が断たれれば六入が断たれ、六入が断たれれば触が断たれ、触が断たれれば受が断たれ、受が断たれれば愛が断たれ、愛が断たれれば取が断たれ、取が断たれれば有が断たれ、有が断たれれば生が断たれ、生が断たれれば老病死憂悲苦悩が断たれる。
所謂る「断」とは、如来蔵が業種を収蔵しないが故に、各々の有支を生じず、生死の連鎖が断たれることを指す。各連鎖は如来蔵によって生じるが、種子が存在しなければ如来蔵はこれらの連鎖を生じる条件を具えず、かくして生死は終結し、衆生は解脱する。但しこの解脱は未だ究竟徹底したものではなく、仏地に至って修めなければ、究竟徹底した大解脱とはならない。
5
+1