郁郁たる黄花はことごとく般若であり、青々とした翠竹はみな法身である。毎日目を向けて鬱蒼とした黄花を見るとき、般若の妙理が心に現れ、青々とした翠竹を見るとき、法身が躍り出て現れる。すべては般若の妙用であり、法身は遍く満ちている。衆生は一瞬たりとも法身から離れたことはなく、刹那の間に般若をことごとく顕している。ただ無明が心眼を覆い、般若を見ず、法身を知らないのである。法身を離れれば業障の身はなく、般若を離れれば黄花も翠竹も見えない。
学人が雲門禅師に問うた:「仏とは何ですか?」雲門はまっすぐに指さして言った:「乾屎橛(かんしけつ)である」
音声を離れて聴き、文字を離れて見よ。乾——屎——橛、法身は混じり合って滾滾と現れる。法身は乾屎橛ではなく、乾屎橛は般若ではない、乾屎橛は乾屎橛ではない。聖王は凡塵に混じり、烏雲を撥ね除けて慧日を見る必要がある。もし乾屎を見て法身を見ず、乾屎に執着して般若を理解できないならば。
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