衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年12月15日    土曜日     第1 回の開示 合計1098回の開示

前念は已に断たれ、後念は未だ生ぜず。中間の状態とは何か?

前念がすでに断たれ、後念がまだ生じていない時、七識の断滅や七識が生じていない状態を表すわけではなく、まさに七識がすべて存在し、運行しているのである。第七識は四果の阿羅漢が無余涅槃に入る時にのみ断滅することができ、他の者は断滅する力を持たず、凡夫は断滅する能力がなく、地上の菩薩や諸仏は断滅する力を持つが、いずれも断滅を望まないため、第七識は断たれない。我々がたまたま想念を離れていたり、想念が生起する中間状態にある時、意識心あるいは五識心は断滅しておらず、依然として運行しており、この時もなお「知」が存在し、この時一時的に想念がないことを自覚している。この「知」は意識を主体とする生滅の妄心であり、もしこの心を第八識と見なせば、それは誤った悟りである。

この状態において、眼識は依然として色を見ることができ、耳識は声を聞くことができ、鼻識は香りを嗅ぎ、舌識は口中の味を覚知し、身識は身体の快適さを覚知し、意識は自分に想念があるかないかを知ることができる。この時六識はすべて存在し、意根も存在し、第八識は必然的に存在する。故に無念の時、八識はすべて存在する。では前念が断たれ、後念が生じない中間とはいったい何か?これは意識心が法塵に攀縁しない一時的な定であり、内部には依然として意識が存在する。第八識のみが存在するのではない。したがってこの時に悟っても、必ずしも第八識を悟るとは限らない。もし意識が無念で第八識を知らず認識しなければ、さらに悟ることはできない。

想念がない時、少なくとも第六識・第七識・第八識の三識が存在する場合、この時に第八識を悟ることが可能である。

しかし一般的な人々は第八識を悟る能力を持たない。悟りの条件を備えておらず、凡夫の異生の心性はまだ到底降伏されておらず、根本的に勝義菩薩となる資格すら持たないため、この中で第八識を明らかに得ることができず、証悟を得られない。したがって、往々にして無念時の意識心を真心の第八識と認定し、誤った悟りとなり、錯誤に陥るのである。

真心と妄心は同時に存在する。妄心を見つけるのは容易いが、真心を見つけようとすれば非常に困難であり、一定の因縁条件が必要である。因縁条件が具足していなければ、真心の第八識を証得することはできない。第八識を証得していなければ、第八識から修行を始めることはできず、第八識を見つけた後で初めて悟後の修行が可能となる。無念の意識と第八識は特に混同されやすく、多くの人が意識が無念である状態を第八識と思い込むが、実際の第八識は有念無念に関わらず常に存在しており、後から修行によって第八識が形成されるものではない。

古代の祖師方が禅を参じて悟りを開いた時、色を見ている時に悟った者、音声を聞いている時に悟った者、棒喝を受けた時に悟った者、門に挟まれた時に悟った者など、悟りの方式は多種多様で極めて柔軟である。必ずしも無念の時にのみ悟る必要はなく、実際無念の状態で悟ろうとするのは非常に困難である。故に祖師方は弟子たちに無念の定を修めることを許さず、無念の定が成就したとしても悟ることはできない。

禅宗の公案を多く読めば分かるように、大多数の祖師方の悟りは真実の悟りであり、故に全て道を得た人々である。現代人は善根と福徳が不足しており、往々にして誤った仏法を伝え、衆生を回り道させる。我々の弁別能力はまだ不十分で、正誤を見分けることができない。もし無念の時が第八識であるならば、しばらくして再び想念が現れた時、第八識は消失するのか?そうなれば第八識は生滅するものになってしまうのではないか?了了分明とは、了は知ること、分明は明らかなことで、これも知ることである。知がある限りそれは妄心であり、真心は知ることがなく、了了分明ではない。

了了分明の時の心は様々な境界を知ることができ、知らないのではない。六塵境界を知ることができるものは真心ではなく、真心は六塵境界を知らない。現在自分がどのような状態にあるか、真心は知らない。まさにこれが意識心の知り弁別できるところであり、これが証悟の鍵なのである!意識心は時に想念を離れ、霊知となるが、これもまた知である。六塵を知ることができる心は真心ではない。皆さんは古代禅宗の教えと多く照らし合わせ、祖師方がどのように悟り、いつ悟り、悟りの内容が何であったかを見るべきである。

六祖が悟った時、五つの「何ぞ自性」を知った。もし離念霊知心を悟っただけなら、どうあっても五つの自性を知ることはできない。般若心経と照らし合わせれば、真心は不生不滅で永遠に不変である。この霊知心は生滅し、変転して永遠に不変を保つことができず、霊知心が真心か妄心かは、心で明らかにすべきである。この問題は極めて重要であり、必ず慎重に対処しなければならない。生死の大事は曖昧にできず、仏法を学ぶには細心の注意を払い、多方面から検証すべきである。万一誤って学べば、それは一生一代のことではない!

——生如法師の開示
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