定には多くの段階が存在します。浅い定は欲界定であり、心がやや平穏で清らかになり、雑念が減り、色身が軽やかになります。この定においても六識は六塵を了別し、六識による六塵の知覚と思惟が存在し、身口意の行為もあるため、人と接することが可能です。欲界の未到地定では、心が一境に集中して思惟し、雑念なく、より清らかになり、色身がさらに軽やかになります。ここでも六識による六塵の知覚と思惟、身口意の行為が存在するため、人と接することができます。色界の初禅定では、心の念いがさらに清らかで集中し、六識の中から鼻識と舌識が消え、残る眼・耳・身・意の四識が四塵を了別し、四塵に対する知覚と思惟が依然として存在します。これらの定の状態にあっても人と接することが可能で、煩悩は微細になり、思惟は鋭敏です。二禅以上の定では五識が消失するため、身体を動かせず、色声香味触を了別できず、身行と口行を持つことができないため、人と接することは不可能です。
修行中に禅定が現前すると、心の機能が開発拡大され、色陰の障礙が減少します。本来目を閉じれば眼前は暗闇でしたが、今や目を閉じても光明を見ることができます。実際、目を開閉するか、眠るか覚めているかに拘わらず、如来蔵は眼根を通じて色塵を伝達しますが、これは識心の分別能力の如何、色陰による遮障の有無によります。睡眠中も外色塵は絶えず勝義根に伝達され続け、例えば朝時に強い日光で目覚めることがあるように、これはまず勝義根内の色塵と法塵が存在し、その後眼識と意識が生起するため目覚めるのです。座禅で定に入ると、眼前は暗闇ではなく一定の光明を有します。その光明の様態や明るさの程度は、禅定の深浅によって決定されます。
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