衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年09月14日    金曜日     第2 回の開示 合計825回の開示

欲望を減らしてこそ、禅定は修められる

阿羅漢が命終する時、意根は一切の法に対し作意を生起せず、思心所の運行もなく、五遍行の心所法も現行しなくなります。このように如来蔵は意根の心行を了別できず、意根の識種子を輸送することができないため、意根は滅します。我々の意根が一切の法に対し絶え間なく作意し、思量択択を続ける限り、如来蔵は絶えず六識を生じ、身口意は継続して現行します。意根は関心を抱く法に対してのみ作意し、関心が多ければ作意も多くなり、意識は非常に忙しくなって寂静できず、禅定を成就することはできません。

禅定を修めるためには、世俗法への欲望を減らし、一切の世俗法に関心を持たず、人間界の享楽を極力控え、出離心が生じた時に初めて禅定を速やかに修得できます。特定の人事物に常に覚観を抱き、瞋恚の心や貪愛があるならば、それは意根の攀縁が絶えず、作意が続き、思量が止まず、六識の念想が継続している証左であり、その状態では禅定を成就できません。人間界の欲望を減らせば欲界定が現れやすく、人間界の法への貪着を少なくすれば天上の境界が現前します。人間界の全てを良しと感じ、人事物を愛着すれば、心は決して定まることはありません。貪心と欲望を減らし、自己への執着を控え、心念を常に自己に向けず、極力自己を捨て去り、道業を心に宿すならば、禅定は容易に現れます。

禅定を修めることは即ち心を修めることであり、貪瞋痴の煩悩を降伏させることが心を修めることです。心を修めることは即ち定を修めることであり、心が清浄になれば禅定は現れます。禅定が修められない者は、必ず心に世俗事が多く留まり、六識が絶えず念想を起こし、一処に定まることができません。故に禅定を修めるには、常に自心を検証し、その内実を観察し、放し難い人事物を極力排除すべきです。そうすれば六識は寂静し、定が得られます。

我々は日々何事を行う際も、心を一法に縁じ他念を生ぜず、或いは他念を淡くし、処理後は直ちに捨て去るべきです。世俗事は対応のみで充分であり、深く執着すべきではありません。禅定を修める際、心念を収摂し世俗法への攀縁を減らせば、動中の定は必ず修まります。心を世間法から隔離し、事を行っても終われば捨て、心で攀縁せず、事柄への執着を減らせば、定は現れやすくなります。睡眠時を除き、常に心を一法に縁じ、念仏・念咒・誦経・観行・参禅・話頭参究・公案参究などに専心すべきです。時を経れば身心に自然と快適な覚受が現れ、禅定は成就します。

——生如法師の開示
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