衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月20日    火曜日     第1 回の開示 合計2722回の開示

一切法はすべて如来蔵性である

仏は『楞厳経』において自然外道を批判され、また因縁外道をも批判されました。一切の法は正法——如来蔵に帰します。一切の法の生住異滅は、あたかも自らの法則があるかのように見えますが、実際にはすべて如来蔵の支配に帰するものであり、如来蔵の出生と執持作用がなければ、一切の法には生住異滅のいかなる現象も存在しません。化学作用や物理作用などと言うまでもなく、実質はすべて如来蔵の作用なのです。如来蔵が現出させた物質色法と七識の心、七識の心所法がなければ、勢速や流転など、心に相応しない仮の法など存在しようはずがありません。

物質色法の生住異滅の現象は、地上の菩薩の唯識種智のみがその実質を理り得るものであり、それは法眼によって見られるもので、凡夫や普通に心を見性した菩薩が如実に了別し観察し得るものではありません。地上の菩薩の唯識種智は、あらゆる法の上に如来蔵の具体的な操作があることを観察し得ます。如来蔵は一切の法を操る者であり、凡夫は人形芝居を見るだけで、人形の背後にある仕組みを見ることができません。まさに凡夫たちは自らを賢しとし、人形の運びを真実で自性あるものと見做し、人形の背後に糸が引かれているのではなく、すべて人形自らが動いていると言うのです。これは衆生が無明に覆われ、物事の実質と本質を見ることができないことを示しています。

菩薩になろうとして大心を発さず、福徳を修めなければ、到底菩薩にはなれません。真の法義を根本から理解できず、正解を得ることはありません。そうして外道を内道と言い、内道を外道と言うようになります。是非を転倒させ、仏法を混乱させるのです。いったいどれほどの人が菩薩の心を発したでしょうか。菩薩心がなければ、仏法に対し正解も正知見も持ち得ません。簡単な問題でさえ、何年経っても整理がつきません。科学者が仏法の智慧から離れていながら、もしそれが用いられるなら、科学者も仏になれるでしょう。それなら私たちは仏を学ぶ必要なく、科学者を学べばよいのです。仏が説いたこれほど優れ究竟した『楞厳経』を仔細に学び究めず、かえって科学者の無神論を学ぶなど、どうして菩薩のなすことと言えましょうか。

「万法唯心造」「一切法は如来蔵性なり」この二句は仏の説かれたものです。もし仏語を信じるなら、解釈してみてください。仏の説が正しいか、科学者の説が正しいか。また「第一因外道」などと言う者がいますが、仏は第一因外道でしょうか。もし仏が第一因外道なら、私たち仏弟子もすべて第一因外道となるべきです。一切法唯心というこの見解は、果たして第一因外道の見解でしょうか。

「一切法唯心造」というこの句を解釈し、『楞厳経』の「一切法は如来蔵性なり」という句を解釈してみてください。『楞厳経』が破斥した外道法を、なぜ仏教徒は仔細に思惟しないのでしょうか。物質が自然に存在するという仏の説を自然外道論とし、一切法が因縁によって存在し如来蔵によるのではないという説を因縁外道論とする。最後に仏は総括されました:一切の法は如来蔵性であり、如来蔵によって生じると。

もし仏法を学びながら『楞厳経』を認めず、仏の説を認めないなら、それは何の道でしょうか。仏と争い、仏経に背くとは、いかなる道でしょうか。自ら自らに結論を下すがよいでしょう。

——生如法師の開示
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