衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月11日    日曜日     第3 回の開示 合計2693回の開示

我見を断ち切ることのできない因

修行とは、まず色身(物質的身体)における五蘊の機能作用を否定し破った後、初めて五蘊の背後にある真人を見出すことが可能となる。色身がいかに実体なく主導性を欠くものであるか。色身は四大(地水火風)によって構成され、四大に支配され操られている。この四大を制御しようとしても容易ではなく、大変な労力を要する上、必ずしも成功するとは限らない。例えば夏の猛暑で全身が汗に濡れ、湿疹が生じるのは火大と水大と地大の不調和によるものである。冷房で風を通せば今度は身体が冷え込み不快になるが、これは風大の不調和である。四大の調和を欠く色身は実に煩わしい。色身がある限り、四大は常にあなたを支配する。仏陀が「四大は四匹の毒蛇の如し」と説かれたように、これらは扱い難く、少しでも気を緩めれば毒牙に噛まれる。このような自主性を全く持たぬ色身が、果たして真人と言えようか? 私と言えようか?

生生世世を通じて滅びぬ「我」とは、本来自由自在で自主性を具え、あらゆる毒害にも侵されず、一切を主宰して一切に支配されざるものである。いったいどのような智者が、このような色身を以て我や我が所有物と認めようか。早急に自心においてこれを滅却し否定し、新たなる主君に帰依すべきである。

これほど明瞭な理が自心において未だ確信できないならば、それは修行に未だ不足のある証左である。究竟的に何が欠けているのか?福徳、智慧、禅定、戒律など、整うべきものは速やかに整え、怠惰を重ねて先延ばしにしてはならない。

色身が我ならず五蘊に我無き理が明らかになった時、本来ならば自ら勇猛に受け止めるべきである。無始劫以来続いてきた自我の観念を更新し、旧きを去り新しきを迎え、全く新たな境地に至るべきである。しかしこの我の観念はあたかも固着したように動かず、一歩前進することさえ困難極まる。これが障りである。山が眼前に立ち塞がるが如く、乗り越えられない。この山を崩すには衆力の和合、すなわち自力と他力を要する。自力とは戒力・定力・慧力・福徳力・善業力を含み、他力とは仏菩薩護法神の加持力、同参道友の推進力、その他善縁の力を指す。自力を主とし他力を従とし、自力が具わって初めて他力も作用し得る。

例えば車を坂道で押している時、突然前方に大石が現れ、自力ではどうしても越えられないとする。如何に力を込めても車は動かない。この時必要なのが衆力の和合である。自力とは体力・忍耐力・機転・決断力などを指し、他力とは過去に結んだ善縁と培った善業によって、縁ある人が通りかかり助力を申し出ることをいう。二人でも足りなければ更に第三者が加わり、三者合力によって大石を乗り越え、進み続けることができる。

もし過去に善縁を結ばず他者を助けず、福徳と善業の種を蒔かなければ、障礙に遭遇した時には孤立無援となる。外力や他力の助けは得られない。通りすがる人さえ現れず、誰も困難に気付かないかもしれない。仮に人が通っても、縁も福もなければ手を差し伸べる者はいない。

仏道修行において福を修め善縁を結ぶことは極めて重要である。成仏の道程には数多き助道者を要し、独力では成し得ない。孤立無縁のまま如何にして三大阿僧祇劫の修行を渡り得ようか。人に手を貸す労すら惜しみ、福徳を積まず善縁を結ばず種を蒔かねば、如何なる障礙も乗り越えられず、ただ慨嘆と悲嘆に暮れるのみである。自ら人を助けねば、如何にして天の助けを得られようか。

——生如法師の開示
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