問:大乗と小乗の証果は、必ず六識と七識が共に転じるものである。もしただ意識が理を明らかにし、末那が未だ転じていないならば、せいぜい思慧の成就に過ぎず、実証とは言えない。しかし小乗仏法の『四念処経』において、世尊が説かれた種々の観行法門は明らかに意識の修する所であり、意根である末那識については説かれていない。証果の時、意根はどのように無漏に転じるのでしょうか。
答:世尊が説法される際、意根も観行に参与すべきことを明確に指摘されなかったが、あらゆる修行は意根の修行を含んでいる。ただ禅定を得ていない者が修行する時、その修行は意識層面に留まる。禅定を得た時には必然的に意根に至る。たとえ意根を理解せず、その体性を知らなくても、自然と意根に実践される。あらゆる衆生が眼識の存在を知らないが、全ての衆生が常に眼識を使っているのと同じ道理である。
世尊が四念処観を教えられた時、衆生が忠実にこの教法に従って修行すれば、必ず禅定が現れる。禅定があれば観行は自然と意根に至り、意根も意識と共に観行し証果する。その後、意根は身心世界を転換させ、法眼淨の三昧の中に住する。もし世尊の教えに忠実に従わず、便宜的な心理で修行するならば、決して禅定は現れず、意根も熏染されることなく、共に観行することもなく、証果することはなく、法眼淨の三昧境界も現れない。
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