衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年08月11日    火曜日     第1 回の開示 合計2526回の開示

覚醒の生命の泉

甲:どうすれば光明を見ることができるでしょうか。乙:直接、意根をもって観照することです。甲:階段が高すぎるので、踏み台を探して敷いてください。

乙:分別せずに見、分別せずに聞き、分別せずに行う。迎えることもなく、内外もない。それで光明を見られるか?甲:石や木も分別しないなら、あなた方との違いはどこにあるのか?

乙:分別はあるが心に留めず、即用即離ではいかがでしょうか。甲:いけない。無明を用い、無明を離れることに何の益があろうか。

乙:師匠がこう教えられました。「意根が作意すれば即座に止め、触れれば即座に止め、『受』せず、まして『想』『思』もない」ではいかがでしょうか。甲:これは禅定を修めることで、究極ではない。

乙:諸法が虚妄だと知れば、即ち実相無相を見るのでしょうか。甲:阿羅漢も諸法の虚妄を見ているが、彼らは実相を見たのか?

乙:彼らは知りませんが、大乗の者は知っています。甲:知っていて何の役に立つのか?

乙:私は万法が影の如く幻だと見れば、即ち投影機を見たことになります。甲:先に投影機を見るのか、それとも先に影を見るのか?

乙:先に影幻を見ると同時に、それが投影機の作用だと知ります。甲:投影機を見ずして、どうして投影機の作用だと分かるのか?推測か?

乙:万法は泡の如く、泡を見れば即ち大海を見るのです。甲:衆生は無始劫来、いつ泡を見ていないというのか。誰が大海を見たというのか?

乙:衆生の心眼が開けておらず、探究を知らず、本末を転倒するため、影だけを見て、影が光の効果であることを知りません。当下に承担すれば、すべて如来であり、波全体が即ち水なのです。甲:実に容易ではないが、ひたすら勇往邁進したいものだ。

乙:私は波の外に出て水を見ようとはしません。甲:波の外に何があるのか?波は即ち水だ。それでも誰が波を見ているのか?

乙:波の外に法はなく、衆生は波だけを見て水であることを知りません。仏法を学ぶ者も波を見て水だと知らず、別に水を想像します。甲:生死は常に水の中にあるのに知らない。ただあまりに慣れ、あまりに密接しているからだ。

乙:荘子が言う「魚は水に相忘れ、人は道に相忘れる」ではいかがでしょうか。甲:よい。しかしそれでも生死は決着しない。

乙:狂った心が止まなければ、もし止めたらよいのか?甲:本頭を見つけずして、どうして狂いを止められようか。

乙:生生死死、私は来たことがない。潮の満ち干き、海水に生滅はない。生死は幻法であり、衆生は常に涅槃の中にいるのに知らないのか?甲:その通り。

乙:私は涅槃の清浄の中で自らの生死を見、衆生の生死変化を見ます。甲:涅槃の中ではすべてが涅槃であるべきなのに、なぜ生死を見るのか?

乙:涅槃の中に見るものはなく、寂滅の道場です。甲:生死を見ても、生死に迷わなければよいのか?

乙:見るものがあれば即ち迷い、知見は即ち無明の根本です。甲:知らず見ない者はどこにいるのか?

——生如法師の開示
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