衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月23日    木曜日     第3 回の開示 合計2486回の開示

教外別伝の正法眼蔵涅槃妙心

釈尊が霊山会で天人から捧げられた一枝の花を手に弟子たちに向かって微笑まれた時、人天の大衆は皆懵懂としており、ただ大迦葉のみが笑みをもって応えた。釈尊は肉眼・天眼・法眼・仏眼をもって大迦葉の禅宗の心が頓悟したことを見通し、「我に正法眼蔵涅槃妙心あり。実相無相、これを摩訶迦葉に付す」と宣言された。これにより大迦葉の頓悟が印証され、娑婆世界における禅宗初祖となったのである。

涅槃妙心とは、全ての衆生が本来具える真心の自性を指す。常に涅槃に在りながら微細に現法する最も真実の法相であるが、この法相には世間的な相が一切なく、色声香味触法の相を離れている。衆生の七識は無明の覆いによってこの涅槃妙心を識ることができない。この公案においては、釈尊の涅槃妙心が常に顕現していたばかりか、大迦葉の涅槃妙心も、さらに無数の人天衆生の涅槃妙心もまた常に輝いていた。にもかかわらず、衆生はただこれを識らない。心が無明に覆われ、霊性の智慧が開けず、慧眼が現前しない故である。

大迦葉はさすが仏陀第一の弟子、仏心を悟り、釈尊が花を手に示された時、慧眼をもって仏陀の妙精明心を見抜き微笑んだ。自らの妙精明心もまた仏陀に見透かされ、師弟は文字言語を超えて心と心を通わせ、以心伝心したのである。禅宗の妙法は衆目煌々たる中で伝授され、後に「我に涅槃妙心あり…」との釈尊の言葉がこれを補った。

禅宗の法が教外別伝たる所以は、伝える妙心妙法が文字言語に局限されざる点にある。妙心の妙は一切法の中を行き、いかなる法も選ばず、文字言語を離れ、全ての法上に遍在することにある。清浄も汚穢も、有声も無声も、文字あるも無きも、全てが即ちこれ妙心の顕現である。

釈尊は四十九年にわたり文字言語で三蔵十二部経を説き、至る所に涅槃妙心を顕された。これが教門理門であるが、なお迂遠の感があった。今回は最も直截的で爽快な、人心を直指する方法を示された。ただ一枝の花を揺らげて大衆に示すのみ。大衆は焦るばかり「これは何の意味か」「釈尊は何を企んでおられるのか」と惑う中、大迦葉は思索を経ず瞬時に頓悟した。これが意根の頓悟である。意識による漸悟は思考を要する故に真実ならず、祖師は一喝してこれを打ち砕く。教外別伝の法は迅速果断、思索を許さない。思い悩む間に機は失せ、真実は逃げ去る。この場で逡巡する者には容赦なく喝が飛ぶ。正法眼蔵とは、この眼のみが真に正しく、他の眼は全て生滅・無明煩悩に縛られ自立せず、依所を求める故に正しからざるを指す。「蔵」は含蔵の義、涅槃妙心が一切法の種子を蔵し、万法を生起することを示す。無から有を生じ、世間を幻化し、衆生をして依執せしめる。これが即ち妙なる所以である。

——生如法師の開示
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