衆生の心理状態は、意識のレベルと意根のレベルという、浅いものと深いものの二つの層に分けられます。意識自体は受動的であり、自らを主宰させようとするならば、意根に影響を及ぼし染め上げる必要があります。染め上げに成功した後、初めて意根は意識の考えに順応して相応の決定を行います。もし意識が意根を染め上げられない場合、意根は自らの従来の習慣に従って主宰し、意識の思想や提案は作用しません。
意識の全ての心行作用は何によって生じるのでしょうか。意識は何故に生じるのか。意根が法塵に触れた後に詳細な分析判断を行う必要があるため、如来蔵が協調して意識を生じさせるのです。意根が作用を起こそうとする時、必然的に意識を生じさせて自らを補助させます。なぜなら意根自体はある事柄に関して作用を起こすことができず、この時意識が代わって作用を起こす必要があるからです。
例えば怒りという事柄から意識と意根の心行の違いを見ると、意識が怒る時に表れる行為は何によって生じるのでしょうか。それは意根が怒りを生じさせるためです。意根が憤りを発散させたり自らの怒りを表現したい時、意識あるいは六識を借りて内心の憤慨を表現します。この時六識は憤怒の身行と言語行を表します。怒りには多くの表現があり、例えば険しい表情・悪口・握り拳を振るう仕草や相手を指差す動作など、これらは全て意識と身識が共同で作り出したもので、意根の心行に順応して作られたものであり、意根の心行を表現しています。
しかし瞋業を作った後の両者の反応には明らかな違いがあります。意識は比較的道理を弁えており、直ちにこれらの行為の善悪を内省でき、先程の行動が実は間違っていたこと、なぜ間違っているかを即座に理解できます。意識が理解した後も、意根はまだ悟っておらず、相変わらず怒りの感情を抱き続けています。意識はこの時「もう怒るのはやめよう、元々自分が悪かったのだから」と説得しますが、意根はまだ理解できず、依然として怒り続けます。
意根が特に激怒した時、意識は全く制御できません。例えば意根が極限まで怒って人を殴りたいと思った時、意識側では「人を殴るのは良くない」と感じても、身体は制御不能に殴りかかってしまいます。意識は意根を制御できず、意根は自らの習気に従って作用を起こし、全くどうしようもありません。六識はただ共犯者として意根に代わってこれらの行為を作り出すしかなく、これが意識が意根を説得できない時に意根の心行に順応して表れる行動なのです。
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