仏法においては、外道が定めた理に適わず解脱できない戒めである禁取戒について説かれています。これは外道が解脱を理解できない無知性を示すものです。よって仏法の修行において我見を断つためには、外道の禁取戒を廃し、その戒めを守ることを止めなければなりません。そうして初めて正しく仏戒を保ち、我見を断つことができます。従って、過去に立てた無意味な願力や誓いを執着し続け、精力と心力を消耗する必要はないのです。執着があれば生死を繰り返し、解脱できません。菩薩は大智慧を持つべきであり、その智慧は世の商人や投機家、政治家らを遥かに超えるものです。菩薩は利益のないことに時間も精力も費やしません。利益あること、あるいは大いなる利益をもたらすこと、最も重要なことのみを行います。
人前での不必要で重要でない体面を捨てることは、つまり「我」を捨てることに通じます。自分に対する無意味な評価や見方を気にする必要はありません。「我」が存在しないのに、なぜ不合理な評価を気にかける必要がありましょうか。正しいことを行い、人々に利益をもたらすことを行い、時間を無駄にせず、仏菩薩と衆生に恥じない生き方をしていれば、それで良いのです。不合理な執念に固執し、融通が利かないのは愚かさです。執念があれば、魔王波旬がその心理を利用し、愚かな行いをさせるでしょう。無心であれば利用されることもなく、隙をつかれることもありません。悪果も生じないのです。仏陀は常に菩薩たちに教えられました。虚偽の名誉や名声に執着せず、誹謗されようと賞賛されようと、心を揺るがすことなく真理のみを堅持せよ、と。
修行の目標を調整し、直接目標に向かって進みなさい。不必要なことに心を煩わすのは割に合いません。意地ではなく智慧を用い、他人から失敗者と見られることを恐れてはいけません。実際のところは自分だけが知っているのです。他人が抱く不必要な自分のイメージを気にする必要はありません。それこそが「我」なのです。様々な「我」を滅することが、真に我見を断つ者です。元々「我」は存在しないのですから、何を気にかける必要がありましょうか。
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