衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月09日    木曜日     第1 回の開示 合計2458回の開示

催眠術の原理(その2)

二つ目の催眠事例では、催眠術師が人を催眠状態に誘導し「眠れ」と告げると、その人は瞬時に睡眠状態に入りました。催眠がかかった後、術師は「あなたは今非常に空腹だ」と暗示をかけます。すると対象者の意根(マナス)はこれを信じ込み、激しい空腹感を覚えます。なぜ意根が信じるのか?それは意根には微細な弁別能力がなく、意識が六塵の境界を分別して「術師の言葉が真実か道理に適っているか」を判断していないからです。従って催眠術師の言葉を全て信じ込み、術師がその意識を代替するのです。

空腹の暗示をかけた後、術師が「空腹か?」と尋ねると「はい」と答えます。そこで術師は「リンゴをあげよう、二口食べれば空腹は消える」と言い、実際には玉ねぎを渡しながら「リンゴだ」と告げます。意根は玉ねぎとリンゴを区別できず、これをリンゴだと信じ込むため、玉ねぎを食べながらリンゴの味を感じるのです。これが虚妄の分別と感受です。

想陰と受陰はこのような虚妄の分別・感受であり、何ら道理がありません。全ての衆生における世俗界への知覚と覚受も同様に虚妄であり、生死輪廻に実質的な意味は全くありません。想陰の虚妄性については『楞厳経』仏説の想陰に関する記述を参照しましょう。経中で仏はこう説かれています:家に座って高い所を想像する者が、自分が崖の上に立っていると強く想う時、実際に崖に立ったかのように感じ、落下への恐怖で神経を尖らせ足の裏に酸痛を覚える。あるいは酸梅を想像した者が、実際に食べも見てもいないのに口中に酸水が溢れる。なぜ酸水が出るのか?これが虚妄想の結果であり、想陰が現れるとそれ相応の境界が生じるのです。

六塵境界と五陰身もまた虚妄の想いが生み出したものです。虚妄の心が虚妄の境界を創出し、さらに虚妄の分別をなし、虚妄の反応を示す。五陰世界は夏日の陽炎や蜃気楼の如きもの。この催眠事例は世尊の説かれた想陰の虚妄性を証明します。つまり私たちの日常生活の全て、各人が生生世世に経験する一切は、全て想陰が創り出した虚妄であり、真実性も道理もありません。

私たちは『楞厳経』を学ぶべきです。そこには世尊が覚りを開かせる法が説かれ、想陰・受陰・行陰・識陰の虚妄性に関する章節を読み、実際に観行を始めれば、五受陰が全て虚妄であることが体得できましょう。まさに悟りを開く楞厳です。

衆生は生生世世、三界という舞台で戯曲を演じ、虚妄に生きています。様々な想い――狂想・妄想・虚妄想によって、実在しない世界を無から創出する。創られた世界は真実か?決して真実ではありません。しかし私たちはこれを真実と見做し、さらに虚妄の境界を現出させ、またこれらの偽境界を真実と錯覚する。すると再び虚妄の受・想・行が反応し、これまた不実なのです。

これら全ての不実な境界は妄想から生じ、さらに妄想境界に対して不実な反応を続ける。終わることなく無意味に生存し戯れ、生生世世自分自身を弄び、苦が楽を永遠に凌駕します。楽さえ真の楽ではありません。三界に住む全ての衆生は結局何をしているのか?まる道化師や役者の如く、自らが劇中にいること、演じていることに気付かず、真剣に役を演じ続ける。なんと愚かなことか。これらの事理を禅定の中で観行し、心を澄まして深く思惟すれば、自らが如何に愚痴に満ちているかを悟るでしょう。いつ覚る時が来るのでしょうか?

覚らなければ永遠に自分を欺き、毎日が「愚者の日」となります。自らを苦しみに追いやりながら、貪りに執着し、求め続ける。生死の大劇で様々な役柄を演じ尽くし、五味雑陳の経験をするが、そのどれ一つ真実などない。最初から最後まで真実など存在しなかったのです。受陰も想陰も不実、妄想・狂想・虚妄想は全て病的な想い、どこに真実がありましょうか?虚妄の境界を創出し、その中で生死の苦を受けるとは、全く無意味なことです。

——生如法師の開示
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