衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2020年06月24日    水曜日     第2 回の開示 合計2423回の開示

未到地定を得るにはどうすればよいでしょうか。

未到地定を得てそれを維持するためには、日常生活において常に現在の行為に心を集中させなければなりません。重要な事柄に専念し、些細な雑事に心を煩わせてはならないのです。重要でないことをする時は内面に意識を向け、外部の事象は最小限の認識に留め、執着したり気を留めたりする必要はありません。何かを得るためには何かを捨てねばならず、あらゆる事柄に心を奪われれば全てが中途半端になり、結局何も成し遂げられません。雑事の束縛から即座に解放され、主要な事柄に専心できるよう自らを訓練しなければなりません。心に余計なものを抱かなければ禅定は自然に現れるのです。

人生で成功を収めるには、集中力を養い主要な事柄を選択し、無益なことに心を使わないことが肝要です。禅定を修得すれば物事への智慧が増し、その後は何事も円滑に進められるようになります。あらゆることに興味を持ち過ぎれば広く浅くなる可能性はあれど、深い専門性は得られません。深さは広さよりも重要で意義深く、それは智慧を表します。智慧があれば仏に至る事柄を含め、成し得ないことはないのです。

現代人は欲深く、あらゆることに興味を持ち過ぎます。情報を貪欲に求め、過剰に関与し、結果として何も達成できずに終わるのです。取捨選択を知らぬ者はまさにこのような状態です。真に得るものを求めるなら、不必要な人や事柄を捨て、心を集中させなければ願いは成就しません。両手で全てを掴もうとするのは、熊がトウモロコシを次々に落とすが如く、最終的に一つの穂すら保持できない愚かさなのです。

自身がダウンロードしたアプリのコンテンツ量を見れば、禅定を修得できるか、心に定めを持てるかが判断できるでしょう。生涯をかけて情報を追い求めても何が得られるのか。世の中の新奇な事象を全て知ったところで、それが何をもたらすのか。真に求めるものは何か、自らに問うべきです。

10年20年と仏法を学びながら、自分に適した教えを見出せない者もいます。あらゆる宗派に手を出し博学を気取るものの、実は何も修得せず、方向性なく彷徨い続ける姿は実に哀れです。

私は幼少期から内省を重ね、外界への関心が薄い性格でした。周囲の出来事に疎く、堅物に見られたものの、思想的には成人を凌ぐ成熟を保ち、常に独自の見解を持っていました。家庭では雑事を任されず、人々の会話にも加わらず、書物に没頭する日々。出家後に初めて炊事などを覚えましたが、集中して取り組めば何事も上手くできることを実感しました。

孤独を愛する性分で、無駄なお喋りを避け、常に一人で行動することを好みました。夕食後の速歩が日課で、思考に集中するため人を寄せ付けず、付き従う者を振り切ることもありました。必要な時以外は会話せず、常に速足で歩み、誰も追従できませんでした。これこそが禅定の修行です。無意味な交流に時間を浪費せず、雑念を排し、自心に専念する道なのです。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

どのような修行の境地に至れば悩みがなくなるのか

次の記事 次の記事

ブラックボックスは舞台であります

ページのトップへ戻る