衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年05月30日    土曜日     第1 回の開示 合計2363回の開示

演劇における意根の心行

問:映画俳優が悪役を演じる場合、非常に真に迫った演技で深く役に入り込んだ時、如来蔵はどのようにして俳優の業行を記録し、業種はどうなるのでしょうか。

答:演劇とは仮装とも呼ばれ、心の働きは真実のものではありません。いわゆる演劇的仮装とは、意識が如何にあるべきかを考え、意根の思想と一致しない状態を指します。行為は意識の作為であり、意識は意根が持たない心の働きをできるだけ真実らしく表現し、あたかも真実の如く、実際に事が起こったかのように見せかけます。

意識が主観的に現じた業行と、意根が主導・制御した業行には極めて大きな差異があり、蓄積される業種が異なるため、果報も異なります。例えば家庭で子供が悪事を働く場合と親が悪事を働く場合では性質が異なり、受ける処罰も異なります。子供が受ける懲罰は軽く、親が受ける懲罰は重いのです。

そして子供が懲罰を受ける時、必ず親に連帯責任が及び、親が代わって罰を受けることになります。意識が主観的に造る業は軽微ですが、懲罰はやはり意根に及びます。意根が自主的に業を造れば、懲罰は全て意根自身に降りかかり、親が全ての責任を負うことになります。ただし親が受けるべき罰は子供が具体的に受けるか、代わって受けることになり、親が尊い存在だからです。同様に意根の果報も具体的には六識が代わって受け、意根が主人として尊い存在だからです。

業を造る際に蓄積される業種と将来受ける果報は、完全に意根の心行、あるいは主として意根の心行によって決まります。演じるのは意識であり、悪人を装って悪事を働くのであって、意根は悪ではないため、本質的に悪でない限り悪業の種子を蓄積することはできません。もし意根が遊戯中に心を動かし、劇中と同じ心行を起こしたなら、もはや演劇ではなく純粋な造業となり、業種はありのままに記録されます。意根が心を動かさず意識だけが仮装した場合でも業種は存在し、全ての行為作為は記録されます。ただし業種の性質は異なり、どのような業種と果報があるかは完全に意根の心行によって決定されます。

もし意識が演技中に上手く演じられず、似ていない場合、それは意識の技術が未熟であることを示し、意識が悪人役にあまり適合していないこと、また意根が悪くないため意識を悪に染ませず、やむを得ず悪人を装い十分に発揮できないことを意味します。しかしたとえ意根が非常に善良な人であっても、意識の演技技術が優れていれば、役に入るのが早く深くなります。蓄積される業種も演じ装う業種であり、意根が悪い業種ではないため、果報も悪くはありません。もし長期間悪人を装い続ければ、密かに意根を染め、意根が知らぬ間に悪に慣れ親しみ、適応してしまう可能性があり、ある時ふと悪を為すかもしれません。

同様に、仏法修証の過程において、単に意識が証果を得て意根が証果しない場合は仮証であり、真実の証ではなく、演劇に等しく、種子は蓄積されますが善果は軽微です。真の実証とは意根を主導とした証得であり、主人が証果を得れば、手下は何を言う必要もなく、主人に随って果報を受け果位を享受します。意根である主人が証果せずに、手下の意識だけが単独で証果を得て果位を享受することはありません。まさか使用人が主人の上に立ち、主人より高位に位置し、主客転倒することなどあり得ないからです。このような道理は存在しません。

——生如法師の開示
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