第八識は本来より無我であるが、なぜ無我なのか。この問題を明確に分析することは、我見を断つ上で大いに役立つ。分析という言葉を用いるのは、第八識を証得していない者には、第八識の作用を眼前に観察することができず、一切法の運営過程における第八識の心性と感知を現前に観ることができないからである。しかし第八識の心性が無我であるには必ず原因があり、第七識が我を有するにも原因がある。その原因とは、第七識が法を見るやいなや世俗の法相に堕し、世俗法の利益を見る点にある。これが無明である。一方、第八識には無明がなく、一切法を見ても世俗の法相を見ず、世俗の利益を見ない。故に無我無求である。では第七識が我見を断つにはどうすればよいか。
修行方法は明らかに示されているが、各人が具体的に着手する因縁条件が具わらないため、手を下せず、着手する場所が見つからないと感じるのである。例えば、私は常にさらに専心して自修し自己を向上させようと考えるが、二年考えても無駄であり、さらに二年経っても実行できない。因縁条件が具わらず、弘法の事業を放下できず、気がかりなことが多く、以前のように一人で満腹すれば家族全員が飢えないという状態ではなく、やりたいことを自由にやれる状況でもない。今は累赘が多すぎる。他の人も同様で、それぞれに苦労があり、物事が整理できず、一心不乱に継続して修行することができない。この湯は生ぬるいままで、沸騰しない。因縁が具わらないのは、福徳が不足しているためであり、それ故に戒定慧が増進しない。よって福を修めることは非常に重要である。福徳は自らの資糧と道糧である。兵馬未だ動かずして糧秣先んず。多くの人は糧秣を持たない。どうして修行に励めようか。
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