多くの人々は禅定の境地を悟りと誤解し、またある者は悟りとは全ての識心を滅尽させ、意根までも滅して作用させないことが真の悟境であると考えています。このような見解にどのような過失があるか考えてみましょう。このような「悟り」において、いったい誰が悟るのでしょうか。何を悟るのでしょうか。この境地には人もなく五陰七識も存在せず、如来蔵のみが残されます。これは明らかに阿羅漢の涅槃境地であり、悟りとは無関係です。ましてや凡夫が禅定修行によって直接意根を滅尽し、倶解脱の大阿羅漢となり即座に有余涅槃に入ることは不可能です。五識を滅することさえ極めて困難であり、意識を滅するのはさらに難しく、ましてや意根を滅するに至ってはなおさらです。
ある者は常に「根塵脱落」を悟境と執着しますが、根塵が脱落した時、根もなく塵もなく、根塵が相まじわらなければ当然六識心も生じません。もしこれを悟りとするなら、いったい誰が悟るのでしょうか。虚空を粉砕し大地を平らげる境地を悟りと見做しますが、この時いったい何を悟るのでしょうか。この境地と如来蔵との関係すら理解できなければ、悟境であることを証明することはできません。人々が仏法を誤解する根本原因は、虚妄法と真実法を明確に区別できず、福徳智慧が未だ不足し、煩悩業障が深刻に遮断され、福徳と智慧の増長を妨げているため、真妄の法を真に融通無碍に理解できないことにあります。
真心と妄心はそれぞれ異なる体性を有します。例えば、「覚」には真心の覚と妄心の覚があり、「平等」には真心の平等と妄心の平等があり、「清浄」には真心の清浄と妄心の清浄があり、「離相」には真心の離相と妄心の離相があり、「有為」には真心の有為と妄心の有為があり、「無為」には真心の無為と妄心の無為があるなど、数多く存在します。要するに、仏法を学ぶ者たちは真と妄を区別することが極めて困難で、常に混同し誤解を生じがちです。これは菩薩の六波羅蜜の条件が未だ具足せず、具足すれば真妄の体性を弁別する智慧が生じ、悟道が急速に進むからです。
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