たとえば私が娑婆世界に親族を持っているとして、私が娑婆世界を離れるとき、娑婆世界の親族はまだ私のものなのか?まだ私の管理下にあるのか?彼らに何かあっても私とは無関係であり、私は責任を負わない。睡眠という法の中には、意識も五識もなく、睡眠という事柄は滅した六識と何の関係があるのか?何かあれば意根に探させて処理させる。意根が処理できなければ、六識に処理させる、それなら睡眠はなくなる。六識には依然として睡眠心所法がない。
睡眠の味を享受し睡眠を受用するのは誰か?六識がなければ、六識は受用できず、当然意根が睡眠を受用しているのである。意根が睡眠を受用したくなければ、神様は眠らないと決める。意識がどれほど抗議しても無駄である。意識が睡眠を享受したなら、翌日は元気がなく、おそらく無気力になり、事もうまくできず、精力も足りなくなる。これは特殊な状況であって、常態ではない。だから意識に睡眠があるとは言えない。意識は睡眠の現場にいないのであり、睡眠という事柄の中に意識を見出すことはできない。
ただ一つの睡眠と言うなら、睡眠とは大体どのような状態なのか、すべての人に共通する点は何か、通常の状態とは何か?特殊な場合は除く。睡眠の全体的な状況は六識を滅することであり、滅するのは五倶意識であって、独頭意識を含むとは言っていない。そのように複雑な身心が休息状態にあるということはない。夢があろうとなかろうと関係ない。独頭意識は夢のある睡眠に相応するが、これは特例であって、通常の状況ではない。だから睡眠の中には六識がなく、六識は睡眠しない。
真の睡眠とは六識を滅することであり、明了意識がなく、五倶意識のない休息状態であり、この状態の中には六識がない。したがって六識には睡眠という一法がない。睡眠の有無、六識の生起と滅去を制御するのは意根である。
1
+1